マルクス「の」資本論

NHK教育テレビでここ数日「1週間de資本論」という番組が放映されていた。番組の内容はタイトルが表している通り1週間(正確には4日間)でドイツ語圏の経済学者、思想家のKarl Marxが書いた『資本論』(Das Kapital: Kritik der Oekonomie)のエッセンスを神奈川大学教授でありマルクス研究者の的場昭弘(まとば・あきひろ)や毎回のゲストとともに現代の経済上の問題と照らし合わせて読みとろうというものだ。
マルクスの『資本論』という19世紀半ばに刊行が開始された著作を集中的に扱う番組がなぜ2010年になっていまさら放送されうるのかということからも一瞥できるが、この「1週間de資本論」の面白さはあの漢字ばかりでチョー難解なマルクスの『資本論』が読まずに明日から〈使える〉ようになることに加えて、まずなによりマルクスが19世紀に「妄想」した理論が現代でも通用する、ないし現代でこそ通用することにあった。
だがこの『資本論』のダイジェスト的な番組を踏まえてここで考えなければいけないのは「はたしてマルクスの理論が本当に現代でも通用するのか否か?」ではないだろう。それよりもまず大事なことはマルクスという1815年にドイツのトリーア(Trier)で生まれた髭モジャのおっさんが、無数の匿名のサポートはあったにせよ、ひとりで〈資本というもの〉についてあれこれ考え抜いたことがあったという単なる事実であり、そこから敷衍して、あれこれ考えれば19世紀半ばの時点ですでに今日のリーマン・ショックにまつわる経済状況は想像できえたということである。
逆に言えば、マルクスの『資本論』出版後、優に1世紀以上が経過する今日いまさらリーマン・ショック(ちなみにこの「リーマン・ショック」という用語も考えもので英語ではそのまま「Bankruptcy of Lehman Brothers」というらしい)だなんだといまさら泡を吹いているのは、少なくなくとも「インテリ」と呼ばれる社会的に高度な知的レベルを世襲できうる層において、いかに「資本がもつ潜在的な力」ただそのことについて徹底的に考えられてこなかったかということの証左であり、彼らの歴史的な知的怠慢に他ならない。
もし仮に今回の「1週間de資本論」や神戸女学院大学教授の内田樹著『若者よ、マルクスを読もう』のように『資本論』の内容が資本、より日常的な単語を使えば〈お金〉にまつわるあれこれとして一般化できうるのであれば、現行の社会経済システムの中で誰も資本「論」の外にいる人間はいない。おそらく2010年の現在においてマルクスの『資本論』から戦略的に学ばなければいけないことは、その「資本」に関する理論ではない。というのも「1週間de資本論」が示す通りに現代社会と『資本論』の内容がよく似ているのならば、すべての事象を理論的に説明漬けしたがる学者でもない限り、わざわざチョー難解な『資本論』を読む必要はないだろう。目の前に繰り広げられる〈日常〉そのものを読み解けばいいのだ。むしろ『資本論』からいま学ぶべきなのは〈資本ということ〉(Das Kapital)についてあれほど徹底的に考え抜いたマルクスの猪(いのしし)的エネルギーそのもの、その〈一人称の政治性〉である。


いずれにせよ、論文にすれば「マルクスの『資本論』におけるゼロ年代的意義」といった仰々しいタイトルで括れてしまうようなこんなマクロな〈大文字の批判〉ではダメなのだ…。

Das Kapital 1. Kritik der politischen Oekonomie: Der Produktionsprozess des Kapitals

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若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)

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