AKBの基礎体力について

TV朝日系列の深夜ドラマ『霊能力者 小田霧響子の嘘』の大島優子AKB48)がたのしい。大島といえば最近では「国民的」と言われるアイドルグループAKB48のセンターであるが、前人気ナンバー1の前田敦子と比べると、どこか<ただ身近にかわいい(+幼顔にしては胸元がエロい)>だけで魅力に欠ける気がしていた。が、『小田霧響子』の彼女は違う。
この『霊能力者 小田霧響子の嘘』は基本的に同テレビ系列の深夜ドラマ『トリック』、『時効警察』等と同じ、ダサかっこいい主人公が少し変な仲間たちと毎回の事件を解決する<スタイリッシュ・オカルト・コメディー>(の劣化版)の系列に属する。ここであえて「劣化版」と記したのは『トリック』の仲間由紀恵×阿部寛コンビ、『時効警察』のオダギリジョー×麻生久美子コンビと比べて『小田霧響子』の石原さとみ×谷原章介コンビでは少し華に欠ける感が否めないからだ。が、その穴を埋めるようにして大島の魅力が(誇張すれば)まるでひまわりのように大きく花開いている。
大島はそこで主役の超人気(インチキ)霊能力者、小田霧響子に毎回悪徳な仕事を持ち込む従姉妹の女社長兼番組プロデューサー役を演じている。この役どころはメディア上では超人気者でも普段はいたって地味という属性をもつ主人公を陰でつねにいびる「女王様キャラ」であるため、石原の根暗度に対していかに明るくコミカルかつサディスティックに振る舞えるかが決め手となる。大島はその課題を見事クリアしている。
たしかに大島の演技はあまりにも型どおりで何の変哲もないように見える。だがその見事に何の変哲もなさ、女王様役を個性的に演じるわけではなく、大衆に流布された女王様<キャラ>に終始する姿はむしろ清々しくもある。私生活は地味だがメディア上では派手というオンとオフの違いをはっきりと示さなければいけない役柄の石原の演技がぼんやりしているのに対し、大島の<キャラ>はブレない。
もちろん大島の演技は石原や谷原に対してオン一辺倒でありワンパターンという批判も成り立つだろう。しかし繰り返しになるがこのワン<パターン性>、それを忠実に再現できるフィジカルなポテンシャルこそ『小田霧響子』から浮かびあがる大島の実力である。それはまたAKB48の総合プロデューサー秋元康の冷徹なコマンドを日夜兵士のように忠実に実行し、踊り、笑い、見せ、大衆の夢を具現化しつづけなければならないドリーム・マシーン、AKB48の基礎体力であるだろう。(続く)

マルクス「の」資本論

NHK教育テレビでここ数日「1週間de資本論」という番組が放映されていた。番組の内容はタイトルが表している通り1週間(正確には4日間)でドイツ語圏の経済学者、思想家のKarl Marxが書いた『資本論』(Das Kapital: Kritik der Oekonomie)のエッセンスを神奈川大学教授でありマルクス研究者の的場昭弘(まとば・あきひろ)や毎回のゲストとともに現代の経済上の問題と照らし合わせて読みとろうというものだ。
マルクスの『資本論』という19世紀半ばに刊行が開始された著作を集中的に扱う番組がなぜ2010年になっていまさら放送されうるのかということからも一瞥できるが、この「1週間de資本論」の面白さはあの漢字ばかりでチョー難解なマルクスの『資本論』が読まずに明日から〈使える〉ようになることに加えて、まずなによりマルクスが19世紀に「妄想」した理論が現代でも通用する、ないし現代でこそ通用することにあった。
だがこの『資本論』のダイジェスト的な番組を踏まえてここで考えなければいけないのは「はたしてマルクスの理論が本当に現代でも通用するのか否か?」ではないだろう。それよりもまず大事なことはマルクスという1815年にドイツのトリーア(Trier)で生まれた髭モジャのおっさんが、無数の匿名のサポートはあったにせよ、ひとりで〈資本というもの〉についてあれこれ考え抜いたことがあったという単なる事実であり、そこから敷衍して、あれこれ考えれば19世紀半ばの時点ですでに今日のリーマン・ショックにまつわる経済状況は想像できえたということである。
逆に言えば、マルクスの『資本論』出版後、優に1世紀以上が経過する今日いまさらリーマン・ショック(ちなみにこの「リーマン・ショック」という用語も考えもので英語ではそのまま「Bankruptcy of Lehman Brothers」というらしい)だなんだといまさら泡を吹いているのは、少なくなくとも「インテリ」と呼ばれる社会的に高度な知的レベルを世襲できうる層において、いかに「資本がもつ潜在的な力」ただそのことについて徹底的に考えられてこなかったかということの証左であり、彼らの歴史的な知的怠慢に他ならない。
もし仮に今回の「1週間de資本論」や神戸女学院大学教授の内田樹著『若者よ、マルクスを読もう』のように『資本論』の内容が資本、より日常的な単語を使えば〈お金〉にまつわるあれこれとして一般化できうるのであれば、現行の社会経済システムの中で誰も資本「論」の外にいる人間はいない。おそらく2010年の現在においてマルクスの『資本論』から戦略的に学ばなければいけないことは、その「資本」に関する理論ではない。というのも「1週間de資本論」が示す通りに現代社会と『資本論』の内容がよく似ているのならば、すべての事象を理論的に説明漬けしたがる学者でもない限り、わざわざチョー難解な『資本論』を読む必要はないだろう。目の前に繰り広げられる〈日常〉そのものを読み解けばいいのだ。むしろ『資本論』からいま学ぶべきなのは〈資本ということ〉(Das Kapital)についてあれほど徹底的に考え抜いたマルクスの猪(いのしし)的エネルギーそのもの、その〈一人称の政治性〉である。


いずれにせよ、論文にすれば「マルクスの『資本論』におけるゼロ年代的意義」といった仰々しいタイトルで括れてしまうようなこんなマクロな〈大文字の批判〉ではダメなのだ…。

Das Kapital 1. Kritik der politischen Oekonomie: Der Produktionsprozess des Kapitals

Das Kapital 1. Kritik der politischen Oekonomie: Der Produktionsprozess des Kapitals

若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)

若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)

物の怪

「もの」はタイトーインベーダーゲームみたいにTEtte,TEtte,TEtte,TEと目に見えてゆっくりやってくるのではなく『呪怨』のトシオよろしくいきなりお宅に入り込んで来る。
休日あたり。研究が一段落し眼疲れ、夜に「巣」から這い出ててくるとよく居間で父が3DメガネをかけてTVを見ている。だがその3Dメガネを通して見ると奥行きが広がりもの凄い臨場感をかもし出す映像も、3Dメガネをかけていない私には輪郭が二重になった見るに耐えないただのブレた映像に過ぎない。
だからその臨場感を味わうためには、というよりも3D時のテレビを見るためには私も父と同じように3Dメガネをかけなけれならない。そのとき母も見たければ母も3Dメガネをかけなければならない。ただTVを見るために、家族そろってあの映画『ターミネーター』でT-800がかけていたようなバカでかくてゴツい3Dメガネを。
そんなんめんどくさいから、だったらいっそこの両眼球ごとデジタル3D対応にしてほしい。そうしたら世のブサイコちゃんもわざわざ肉体の方を整形する必要もないだろう。「写真」みたいに目に映る映像の方を加工すればいいのだ。いずれにしても自分が想像し、少なからず待ち望んでいた未来はこんな家族全員が3DメガネをかけてTVをみる。そんな「錯覚」を積極的に楽しむような世界ではなかった。
でも今度のデジタル3D映像になったバイオハザード映画版最新作『バイオハザードIV アフターライフ』は面白そう。3Dのミラ見たい。
http://biohazard4.jp/site/

在野のメディア論

内田樹茂木健一郎池上彰と、TVや雑誌等のマスメディアで需要の高い三人の日本系知識人の共通点であり、より具体的に、巷のひとびとは彼ら三人にそのほかの知識人系の人たちとは異なったいったいどのようなことを求め、また感じているのだろうか、ということについて考えをめぐらせているとなんとなく【知のジャーナリズム】という言葉が頭に浮ぶ。
そういえばドイツの文人Walter Benjaminの生涯に読み込むことのできる急激な「後期転回」も細かい用語の定義は後にして、ある意味ではjournalistischという言葉でもって括ることができるかもしれない。
『街場のメディア論』も関心上タイムリーだし読んでみよう。ネット上に転がったレビューを見る限り「メディア論」ではなく【マス・メディア論】のようだし。

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

ケータイつながるようになってます

連絡が遅くなりましたが、ケータイ経由で再び連絡がとれるようになりました。故障した本体は修理をすることができず即回収という上に、多額の交換費だけは手元に残るiPhoneのシステムをはじめて目の当たりにし、これってKarl Marxが言うところの「Entfremdung」(疎外)なんじゃねとも思いましたが、リニューアルさせられたiPhoneは今のところ高円寺の阿波踊り子のように元気に動いております。

現在ケータイつながりません

iPhoneが逗子海岸で見事に水没し夏の花火よろしくきれいに散ってしまったため、現在ケータイ経由では連絡がつながらない状態にあります。なにか御用の方はmixiまたはfacebook経由でお願いします。

ガムの味を長持ちさせて

ガムの「すごさ」をこの頃あらためて実感する。イメージの物質的な悪さでいえばタバコに次いで第二位といっても言い過ぎではないのではないかと思うぐらいあまり品の良い食べ物ではないガムではあるが、タバコが近年多くの国でどんどん規制されていくのに対してガムはその受容の衰えを未だ見せない。もちろんガムには副流煙の問題はないけれども(ポイ捨てによる公害はどちらも共通しているが)。
しかしより注目したいのは19世紀末から続くガムの商品としての寿命の長さではなく、最近になり急激に刷新が唱えられているガムの味の長さ。佐々木希が「噛むとにゃんにゃん」と歌うCMが印象的なロッテの「Fit's」に加えて、「クロレッツ」にも味が長持ちするガム「XP」シリーズが登場した。
Fit'sのCM
クロレッツXPのCM
ここで実感としてよく分からないのが、なぜそんなにガムの味が長持ちすることが購買者にとって大切なのかということ、より具体的には意味論的に【なぜガムの味が長持ちすることが社会の中で価値を持ちうるのか?】ということである。「すべての物事には歴史の断片が隠れている」とはドイツの文人Walter Benjaminの考え型であるが、はたして味の長持ちするガムを生み出させるような巷の集団的欲望とはどのように言い換えられうるものだろうか?流行のエコ系、つまり「もったいない」系のコノテーションだろうか?
上にリンクを貼った両社のCMを見るかぎり、ふたつのガムの「売り」は明らかに【味が長持ちすること】の他にはないように推定できる上に、クロレッツのCMがターゲットとしている顧客層はガムに対して日頃から不満を抱いていそうな子供たちではなく【社会人】である。これまで社会人はそんなにずーっとガムの味が長持ちすることをたとえ無意識的にであれ待望していたのだろうか?私個人に関していえば、大学に入る前まではまだしも、それ以降は「ああ、ガムの味が長持ちしてほしいな〜」とはそれほど望んだことがないように思えるし、そもそもガム自体あまり食べなくなった。
それに個人的にあえて現行のガムに対して改良してほしいことがあるとすればそれは味が長持ちすることではなく、【捨てなくていいこと】である。現段階で開発が可能なのかどうかは知らないけれども、「最後まで食べられるガム」。こっちの方が「味が長持ちするガム」よりもよっぽど魅力的なような気がする。ポイ捨て、より一般化してゴミ問題にも一役買うと意味付けすれば「エコ」のイメージにも当てはまるし。
それとも味の長持ちするガムにおいて味が長持ちすること自体は実は二義的なことで、一義的にはそうして「味が長持ちする」とこれまでのガムとの違いを際立たせ市井の注目を再びガムに向けさせることそのことが重要なのだろうか。そうすればガムはこれから増えることが予想される強制的な禁煙者の寂しくなった口唇の欲望を満たすいわば【新たなおしゃぶり】として機能することができるのかもしれない。
やっぱり「たかが」ガムにも歴史の断片が隠されている?