ガムの味を長持ちさせて

ガムの「すごさ」をこの頃あらためて実感する。イメージの物質的な悪さでいえばタバコに次いで第二位といっても言い過ぎではないのではないかと思うぐらいあまり品の良い食べ物ではないガムではあるが、タバコが近年多くの国でどんどん規制されていくのに対してガムはその受容の衰えを未だ見せない。もちろんガムには副流煙の問題はないけれども(ポイ捨てによる公害はどちらも共通しているが)。
しかしより注目したいのは19世紀末から続くガムの商品としての寿命の長さではなく、最近になり急激に刷新が唱えられているガムの味の長さ。佐々木希が「噛むとにゃんにゃん」と歌うCMが印象的なロッテの「Fit's」に加えて、「クロレッツ」にも味が長持ちするガム「XP」シリーズが登場した。
Fit'sのCM
クロレッツXPのCM
ここで実感としてよく分からないのが、なぜそんなにガムの味が長持ちすることが購買者にとって大切なのかということ、より具体的には意味論的に【なぜガムの味が長持ちすることが社会の中で価値を持ちうるのか?】ということである。「すべての物事には歴史の断片が隠れている」とはドイツの文人Walter Benjaminの考え型であるが、はたして味の長持ちするガムを生み出させるような巷の集団的欲望とはどのように言い換えられうるものだろうか?流行のエコ系、つまり「もったいない」系のコノテーションだろうか?
上にリンクを貼った両社のCMを見るかぎり、ふたつのガムの「売り」は明らかに【味が長持ちすること】の他にはないように推定できる上に、クロレッツのCMがターゲットとしている顧客層はガムに対して日頃から不満を抱いていそうな子供たちではなく【社会人】である。これまで社会人はそんなにずーっとガムの味が長持ちすることをたとえ無意識的にであれ待望していたのだろうか?私個人に関していえば、大学に入る前まではまだしも、それ以降は「ああ、ガムの味が長持ちしてほしいな〜」とはそれほど望んだことがないように思えるし、そもそもガム自体あまり食べなくなった。
それに個人的にあえて現行のガムに対して改良してほしいことがあるとすればそれは味が長持ちすることではなく、【捨てなくていいこと】である。現段階で開発が可能なのかどうかは知らないけれども、「最後まで食べられるガム」。こっちの方が「味が長持ちするガム」よりもよっぽど魅力的なような気がする。ポイ捨て、より一般化してゴミ問題にも一役買うと意味付けすれば「エコ」のイメージにも当てはまるし。
それとも味の長持ちするガムにおいて味が長持ちすること自体は実は二義的なことで、一義的にはそうして「味が長持ちする」とこれまでのガムとの違いを際立たせ市井の注目を再びガムに向けさせることそのことが重要なのだろうか。そうすればガムはこれから増えることが予想される強制的な禁煙者の寂しくなった口唇の欲望を満たすいわば【新たなおしゃぶり】として機能することができるのかもしれない。
やっぱり「たかが」ガムにも歴史の断片が隠されている?