叫びを聞く耳

地元の天満宮

心が疲れたので、地元の天満宮ないしその周辺をぶらり。今では「」付きとなった「日本風」の木々や路地に、自らの原風景を見る。なんてことはないが、不精ひげだらけで、素っ裸の看板、建物、道、鶏などに心和んだ「事実」は忘れないでいよう。この感覚を、バルトに倣って、路地のエロティシズム、と名付けたい誘惑にかられたが、即座にやめる。時期尚早だから。
ALWAYS 三丁目の夕日』などのレトロマンチックを、記録された歴史と対比し「事実」如何を問う、というクラカウアーみたいなことは、今ではさして意味があるとは思えない。言ってしまえば、ぼくら(ここは一般論でもいいだろう)の記憶に、「正しい」過去なんてあるはずがない。記憶の中の過去も、記録の中の過去もすべて、取捨選択されているのは当然。発狂した彼も人間の「忘却の力」について語っていた。良い記憶が残れば、コメディないしヒューマンになるし、悪い記憶が残れば、サスペンスないしホラーになる。記憶と映画に違いはない。考えたいのは、「現在」の批評。なぜ今、レトロマンチックなのか?ノスタルジー、懐古趣味、そんな隠れた進歩趣味はもうこりごり、博士。
ヨコハマ買い出し紀行』のようなそんな未来。日々沈み行く世界の中で、その日を「ただ」生きていく。それ以上のことを生命がしているとも、また出来るとも、思えない。そんな月曜。