沈黙に比例して量の増える吸い殻の如く

自分の限界の定立と他者の認容への架け橋のひとつとして、まずは自己の無力さを認識しなければならない。
『反写真論』(倉石信乃)や、田中純さんの文章を読んでいて思うのだが、以前は正統性の付与として機能していたいわゆる「小難しい」文章は、いまや保守ではなく、「アヴァンギャルド」としての機能に転化しているのではないか?もちろん、アヴァンギャルドとしての「小難しい」文章と、ただのアナクロな小難しい文章や、小難しそうなだけの文章とは区別する必要があるが…。