あゝ、荒野

あゝ、荒野

寺山修司最初にして最後の長編小説。この小説にはもはや現代のディスクールでは書けない「外の思考」がある。写真家の森山大道はこの小説を「長編叙事詩」と読んだが、全く賛成する。この『あゝ、荒野』と題された700ページにわたるアフォリズムからは、失われた60年代新宿のブルースが聞こえるのだから。
1960年代。それは「個人」末期の時代。そこにも古くからの(個人の)内面性のようなものはもはやない。内面はつねにCMや歌謡曲、広告のコピー、小説かの引用などで置換される。その背後にはディスコミュニケーション空間が広がっている。

私はこれを書きながら、「ふだん私たちの使っている、手垢にまみれた言葉を用いて形而的な世界を作り出すことは不可能だろうか」ということを思い続けていた。歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズ。そうしたものをコラージュし、きわめて日常的な出来事を積み重ねたことのデベイズマンから、垣間みることのできた「もうひとつの世界」そこにこそ、同時代人のコミュニケーションの手がかりになるような共通地帯への回路がかくされているように思えたからである。
                        〔上掲書、692-693頁〕

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ニーチェ全集〈4〉反時代的考察 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈4〉反時代的考察 (ちくま学芸文庫)

「生に対する歴史の利害について」。「力への意志」前夜。装飾的な権威としてでなく、そこから生成する「生のプラットホーム」としての歴史。