へるでんりんはかくかくしかじか語りき

どこかの報道番組が派遣社員の生活環境の実情をワーキングプアというか「ポア」のように特集していた。残念なことに、「あまりにも悲惨」に映し出された(いつも)彼らの姿に対して、「悲惨だ(怒)」という出来レースめいた反応はもはや簡単にすることができない。「悲惨」な彼らの姿をみても、そこに思ったのは、むしろ文学の救済というような安寧楽々としたやつで。
生きることそのものにつかれ、剥き出しの生の無価値さが露呈した彼らが書いたものは日記ではなくもはや化石となりつつある、詩だったこと。その、つらい、くるしい、という「生の余剰」(フーコー)としての「感情」が求めたのが、タコ壺となった「言葉」、「物語」、「うた」に回収されることではなく、むしろ「詩」というディスコミュニケ―トであったこと。そこに、なにか文学の変わらぬ必要性であり、救済があるのではないかと考えたとき、ヘルダーリンの讃歌「パトモス」があたまをよぎった。

近くにあって
たしかめるよすがもないのは 神。
しかし危険があれば そこには生ずるのだ
救う力も また。
鷲は闇のうちに住い アルプスの子らは
平然と奈落を超える
あわつかに架けられた橋を渡って。
めぐりには時世の峰また峰が
たたみ重なり 愛する者らは
間近に住みながら 孤絶の
山々にあいだを剖かれ 倦み果てている。
我らに与えよ 無垢なる水を
翼を与えよ 心まめやかに
行きつ戻りつする術が 叶うよう。

そういえば、ハイデガーはなぜわざわざ「技術論」の文脈でヘルダーリンのこの詩句を引用したのだろう?

ヘルダーリン詩集 (岩波文庫)

ヘルダーリン詩集 (岩波文庫)