天才はヘンタイの賛成なのだ

BOSSの缶コーヒー「ファーストクラス」をついに飲んだものの、その他のエコノミーな缶コーヒーとの違いは名前以外には分からず、その甘い味とは反対に、コーヒーのように黒くニガニガしい思いをした。でも、いいのだ。自分の脳内は仲間との会話によって、いままた「確変」し始めた。「あくせく」するものは「アクセス」する。
Walter Benjaminからのシナジーで、論文を書くこととは書物からに限らずともなにかを「引用する」ことだと感じている。引用は、身から出た錆ではない。引用をするためにはなにか自分の外との出会いが不可欠である。だが、出会いはどれもつねに偶然だ。なにか「いいもの」に出会えるかどうかの確率なんて自分では決定できない。でも、スパークしたとき、ぶよぶよでのっぺりとした世界は収縮し高密度のエネルギーの束となって自分に舞い降りてくる。出会いの確率は変動する。引用とは、そうした「悦ばしき(fröhlich)出会いの瞬間」の蒐集であるとするならば、引用することもまた、Octavio Pazを引けば、「ポエジー」となろう。

わたしは詩を書き始めて以来、それは為すに値することであろうか、と自問してきた――人生からポエジーを引き出すより、人生をポエジーに変える方がよいのではないだろうか? そしてポエジーは、詩の創造よりはむしろ、詩的瞬間の創造を、それ本来の目的として持つことはできないのだろうか?(7)

弓と竪琴 (ちくま学芸文庫)

弓と竪琴 (ちくま学芸文庫)

Benjaminは未完に終わった『パサージュ論』において、すべて引用から成り立っている書物をつくろうとしていたと言われている。ならばそれに対して自分はこう言おう。自分が目指すのは、すべて引用から成り立っている思考をすることだ、と。