歴史になるにはどうしたらいいですか

自身の研究のモチーフと最近みた映画について。哲学も芸術も結局は歴史であるし、歴史となる。つまり歴史の貯蔵庫として。ここで問題はどのような歴史を、といった内容の問題はつねに形式でもあるのだから、どのように歴史を保存するかということになる。ここで自分の立場にとって大事なものは畢竟、言葉であろう。思考でもなく、発想でもなく、言語でもなく、平行的なコミュニケーションに直角に交わる垂直的なコミュニケーションとしてのそれ、いわば詩、死。では、いかにして言葉は平行から垂直へと90度の鋭角な旋回をみせるのか?そこにおそらく身体や記憶の問題が絡んでくる、二重の意味で。内容的に、修辞学的に。
Charlie Kaufmanの『脳内ニューヨーク』(原題は、SYNECDOCHE, NEW YORKでいわば「ニューヨークの提喩」)をやっとみた。物語の冒頭からすでに死んでいるような主人公のケイデンの歩く、その横向きの平面的なショットは、脳内でロッセリーニ『ドイツ零年』のエドモンド少年の幽霊めいたぶらつきにむすびつき、孤独が多層化して、心に痼り(しこり)をのこす。でもそうじゃない。本当に見たいのは本当の孤独、本当の絶望。ここで、pakepakeとタイピングしていてふとおもうのだが、こうして自分の記憶では書けもしない「痼り」といったようなすばらしい感じが、エンターキーひとつで魔法のように変換できるのは二重の意味で歴史的にみてPCの有用なところではあるが、ではPCの標準規格に入っていない文字群はいったいだれがどのようにして変換するのだろう?さておき、ヘイゼル役のSamantha Mortonは表情の演技いわば顔技がとても愛らしく、その栗栗したビー玉のような眼、ハリウッド的でいいのだけどなによりも悦に入ったのはその髪のボリューム。あれが画面左半分大写しになったときの襞感といったらもう「映像!」と嫌にうすら明るい映画館の2階席で悶(もだ)えたかった。
歴史性、歴史性、歴史性。