愛くるしい人々=愛狂しい人々

たとえば、それは『KING KONG』も。


日本人の−すべてではない−(やはり、芸術における、と注釈しておいた方がいいのか)恋愛狂ぶりには驚かされる、というのはレトリックであり、実際(ってなんだ?)には、呆れさせられている。最近(この言葉はつねに「何時の最近になるだろう」という未来への過去に対する前もった細菌でもある)、workaholicに対する“恋愛中毒”は英語で(なぜわざわざ英語で?)なんという(書く)のか道すがら考えている。便宜上、暫定的にここでは、loverholicとする。した、時点でなにか満足してしまった。ために、書くめんどくささが増している(現在進行形)。
現在の(とはいつか?)、ある日本人ら−こういうとき、日本語にも不定冠詞があればいいのに、と強く思う−は、まさにこのloverholicではないのかと考えたくならざるをえない。
なぜ、日本を沈没させてまでも、描きたいのは恋愛なのか?
愛、ならばまだしも、そのエゴ版(個人間のみの対話)である恋愛話(ラブストーリー)なのか?その恋愛ひとつを描くために、いまやいったい何人の犠牲が必要となってしまっているのか(嘆き)?もはや我々(われわれ?私も?カイワレ?)の前に『INDEPENDENSE DAY』は必要なく、その位置(ポジション)には恋愛狂エイリアン(vgl.平安京エイリアン)が置換されている。


ええ、屈託なく、屈折です。