シンクロとアナクロの草枕

いつのまにかシンクロをしっかりと欠かさずに見ていた。4日間であるが競技の中継はもちろん翌日の新聞、ゲット・スポーツに至るまですべてを自然と網羅した。なにより見ていて、あの文字通りチーム一丸となって演技をする姿が見ていて本当にうれしかったからだ。
シンクロなどまっさらな素人の私だから事実関係は知らない。すべては私の想像だが、とにかく一番に感じたことは、シンクロは落ちこぼれをつくらない、ということだ。もちろん過酷な競争はあるだろうし、各選手間での実力差もあるだろう。しかし原理的にいってシンクロは常に完璧な同調性が求められるスポーツだ。それは他のどの団体競技ともオーケストラとも違う。だからエネルギーは自然といつも、いかにみんなで一緒にできるようになるか、ということに費やされなければならない。うまい人はついてこれないへたな人のためにエネルギーを使い、へたな人は追いつくためにうまい人のためにエネルギーを使う。みんなが自分以外のためにエネルギーを使う必要があり、誰一人として不用で繋がっていないものはいない。連鎖的にみんながみんなのことを思いやっている。もちろん慈善事業ではない。でなければ勝てないからそうするのだ。そこまできれいなものでもないだろう。でもそうして生まれてきたものは最高に綺麗だった。
団体種目中はいうまでもなく、鈴木絵美子のソロでさえ、他の選手は皆でスタンドからどの観客よりも大きな声援をおくる。試合後、原田は鈴木の銅が自らのことであるかのように触発され、あからさまに気合のポーズ。選手たちのコメントからはどれも「仲間を信じて」という言葉が聞こえてくる。解説者までもがいてもたってもいられずに仕事を忘れて真剣に応援してしまっている。きっと元来、蚤の心臓でソロよりもみんなで泳いでいる方が好きというキャプテンの鈴木の影響もあるだろう。チームでの銀にあそこまで涙を流すことのできる彼女たちの仲間への思いやり、信頼、そして愛情の高さは紛れもなく美しかった。
今回のシンクロから学ぶものは多い。WBCは事情により全く見ていないが、イチローを中心に一丸となって世界一を獲得した王ジャパンにも同じようなものを感じる。また近年の女子ソフトボール、バレー、カーリングでの日本の隆盛もある。一方で明らかな日本サッカー陣の停滞。男性原理と女性原理の問題、社会・教育に向けた同様の理論の応用など言いたいことは尽きない。ただ欧米スタイルのむやみやたらな流用ではいつかどこかで限界がくる。所詮はモノマネだ。ならば体格や身体能力で劣る海外選手にいかにして立ち向かうのか。その答えが少しずつ見えてきたような気がする。