コミュニケーション速度の果て

卒論で扱う予定、というか今、扱うことに(やっと!)決めたコミュニケーションと速度に関してまた気づいたことがあるでネット上にもメモって置こう。少し酔ってるもいるし。
近代化というか、なんだか知らないが、とにかく芸術と大衆のコミュニケーション速度は加速度的にましてきた。
表象と主体の関係で考えるなら、はじめは美術館までいかなくては味わえなかった芸術が、複製技術の登場によって「アウラ」などは置いといて、それからテレビの登場によって、即座に味わえるよう、つまりコミュニケート(アクセス)可能になった。そこでは芸術、つまり「アウラ」のない語りかけるそれは、もはや表象ではなく情報だ。そしてついにインターネットが出てくる。そこでコミュニケーションされる情報とは、リアルタイム性をそなえていたテレビのつぎ、インタラクティヴィティー性を伴っている。ついに情報は双方向的に飛び交う。
しかしここで(さっき)気づいたのだ。今や速度が停止してまっていることに。
絵画→映画→テレビ→インターネットとこれまでコミュニケーションは加速してきた。でも気づけばこれは加速なんかじゃなかった。これはコミュニケーション停止への変遷だ。なぜなら、現代至上主義的にでは決してなく、インターネットより早いコミュニケーションなどはたして存在するのだろうか?もしできるとするならば、それは光の速さを超えなければならないがそんなもの超えられるはずがない。というか、光速を超えてしまっては認知することさえできない。これ以上の、双方向以上の、コミュニケーションの加速は在りえない。
まさにグラウンド・ゼロの光景だ。
ビルはにょきにょきと垂直に伸びていく。列車はますます速くなる。が、それもどこまでか?ビルはどこまで高層化でき、列車はどこまで高速化できるのか?きっといつかその速度は地球をはみだし、宇宙にでる。木星に到達し、銀河を翔る。しかしそこでなにをするのか?ビルはにょきにょきと垂直に伸びていき、列車はますます速くなる。しかしそこでなにができるのか?すべては平板化しどろどろ溶け出しているではないか。
あなたとわたしはもうこれ以上、近づくことはできないのだ。