やっぱりそれは怖ろしいことかもしれない scheiss gut!

『世界』(邦題:世界)
製作:2004 日本/フランス/中国 監督・脚本:ジャ・ジャンクー 音楽:リン・チャン 出演:チャオ・タオ/チェン・タイシェン/ワン・ホンウェイ
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たとえば妄想してみる。古代、中世、近代、現代、そして未来。古代が「古い」を、中世が「真ん中」を、近代が「近い」を、現代が「現在」を、未来が「未だ来ていない」を、想像させることからも分かるが、「歴史」は今である「現代」から同心円状に発せられている。古代は中世となり、中世は近代となり、近代は「今」となる。さあ、歴史はついに「現代」に辿りついた。では「現代」のつぎはなにが来るのか?「未来」は来ない。なぜなら「未来」は現代人が言う「未だ来ていない」時代であり、来てしまっては「未来」ではないからだ。では後現代?「今」のあと?
「今」私の一番好きな映画はなにか?と聞かれれば「世界」と答える。
映画の舞台となっているのは、(実在の)「世界公園」。そこのキャッチコピーは「パスポートなしで世界を回ろう」。だからもうパスポートなんて必要ない。なぜなら、今まで世界に出るためにはパスポートが必要だったけれど、この「世界(公園)」ではパスポートなしで自由に「世界(公園)」を回れるから。ここでまたいらぬ妄想。じゃあ、この世界から出るにはどうしたらいい?その自由さが、この不自由さをいっそう際立たせる。
「あの飛行機にはどんな人が乗っているのかな」
「さあ、知らない。私の知り合いにはいない」
映画の中に通低音として流れる絶え間ない閉塞感。そして私の感じている終わり。この世界から飛びたつ飛行機に知り合いはいない。なぜならこの世界はもう「現代」だから。「現代」に外はないから。「これはおわりじゃない。はじまりだよ」と言われても、そのはじまりは未だみつからない。
あと、わたしのくせとして、必ずDVDで映画を終わったあとに、予告編も見るようにしている。それは、私が実際に見た映画の感想と、配給会社がこの映画を(人々に)どうみせたいのか?というのを比較したいからだ。そして思う。なんでも映画を「恋愛」にしたらいいってものじゃない。でも配給会社は、慈善事業じゃないから利益を生むためにも、たぶん「人々が欲する(ように)映画」を見せているのだ。だからたぶん配給会社がそう見せたい、のではなく、人々がそう見たいのだろう。
語ることばはないのだろうか?
長くなってしまったのは、いまの私がセンチメンタルだから。今年はアジア映画も、『グエムル』『弓』『楽日』ときて、21日からは侯孝賢(ホウ・シャオシエン)の『百年恋歌』が公開している。楽しみだ。