溶ける人間

点ではなく線で思考しろといったのは、ヴィリリオだったかドゥルーズ=ガタリだったか。
速度と歴史について語り始めた卒論だったが、いつの間にか「人間の死」について語っている。人間の死といっても終末論的なそれではない。(ペシミズムにはつねに抵抗しているつもりだ。センチメンタルは「私」を特権化する。)人間の死とはフーコー的な意味での「人間の死」だ。
「人間」といってもたかだか18世紀の発明品であって、決して自明なものではない。(でもイジメは自明だが。)だからその設計図(取り扱い説明書)をを読み返していけば、たちまち「人間」ではないものにぶつかる。それは「私」に関しても同じだ。
たとえ鏡を見て、「わたしってなんてかわいんでしょう☆」といったって、それは私がカワイイからカワイイのか、両親がカワイかったから私がカワイイのか、祖父母がカワイかったから私がカワイイのか…。はたしてそこで本当にカワイイのは「私」といえるだろうか。もう毛穴という毛穴からサナダムシがにゅるにゅると蠢(うごめ)きだして「私」は分解している。
文学に対してはよく「所詮机上の空論」みたいなことが言われる。ワタシの卒論に関していえば、ワタシが精神分裂症にでもなれば、自らの論を実践したということになるのだろう。