「うすっぺらい」の反意語ってなんだ?

ほぼ日の「今日のダーリン」が、糸井重里の「皮膚論」といってもいい様相を呈しておもしろいので、きわどいけど、全文掲載してしまおう。

丹波篠山から、黒大豆の枝豆といっしょに、
名物の栗を送っていただいたので、
いつもの焼き芋用の土鍋で焼いた。
うまく焼けた。ゆでるより焼くほうがうまい。
皮をむいて食べるつもりだったけれど、
大変に面倒くさいので、半分に割っては
スプーンでほじって食べはじめた。

でも、スプーンでほじったのでは、
栗の食べられる部分の表面が食べられない。
あの表面の、ちょっと固くなったところがうまいのに。
焼き芋だって、そうだ。
皮ごと食うことで味わえる表面がうまい。
サンマやらアジやらの干物も、
開いた身の乾いた部分が大好物なのだ。
干し柿も、表面の皮の部分こそ、だ。
パンも、白いところなんか二の次だ、皮がいい。
ようかんも、固まりかけたはじっこのところがうまい。
豚の丸焼きだとか北京ダックは、皮が料理だ。

栗をスプーンで食べてたところから、
ずいぶんうねうねと遠いところに話がきたけれど、
一般的に「中身」だと思っている部分って、
「中身」のなかのあんまりおもしろくない部分だね。
ほんとにおいしいのは、「中身の皮」だよ。
おれは、そう思ったね。

おもしろい「もの」というのはない、おもしろい「こと」があるだけだ。「ビジネス」の側からだって、ニーチェドゥルーズを使わずとも、こんなにユニークな皮膚論が生まれるのだから。