悲しみのメディア

その「力」は顕現していないかもしれないが、メディアは強烈な「極私的性」を潜在的に秘めているのではないか?
出てくるまま、アイデア(情報)をぶちまけておく。
『明るい部屋』でバルトは、写真に「母」の身体を見た(いや、見てしまった)。だが、倉石信乃の言うように、それはあくまでも見出したのであり、その順番や性質には注意しなければならない。

バルトの教えはあくまでも、写真にあっては比較を欠いた何ものかが指示されてしまうという事件が個別的に起こりうるということなのであり、それがたまたま私的なもの(バルトの場合は母のイメージ)である、ということなのだ。比較を欠いたもの、あるいは「極端なもの」という写真的物質性が、写真の私性に先行してはじめて、写真論的拘束から我々は離れることになる。私は極端なものを愛する。→それは「私」の母のイメージである。この順番を守れ!
                          [倉石信乃『反写真論』45頁]

電脳コイル』の「イマーゴ」が医療だったこと(またその過去性、記憶性)なんかを考えると上記の「写真」の部分は「メディア」にまで拡大できるのではないか。捨てられない幼少時代のタオル、都市、映画、ネット。メディアはすべて記憶(ないし時間)を宙づりにするような「極私的性」を生む「力」を潜在している。たとえば、映画(映画館→DVD)について、こんなことを考えてしまう。現代の脳科学が進み、夢と記憶のメカニズムが解明され、何らかの電気刺激を与えることによって、記憶から自由に夢を再生することができ、その(たとえば死んだペットの)映像を保存できるとしたら?そのとき、見ている映像(記憶)とは「映画」(の持つ潜在的な力)だったのではないか?そのとき「死」とは?
だが、「アウラ」と名付ける衝動に駆られてしまいそうな、そのメディアに潜在する極私的な力とは、あくまでも(悲しみの、「遠さ」の、)「再・生」であり、永遠の生といったような夢物語ではない。

景色を写さなくてはいけないのに、写したいのに、どうしても風景になってしまう。たとえば妻は大景色なのに、その妻さえ風景にしてしまう。
             [荒木経惟『アラーキズム』(伊藤俊治編)97-98頁]

死者を「ゾンビ」にする。