「ついて」について

「作品」を語る。いかに語る?ふたつある。作品に「ついて」語るのか、作品の「ように」語るのか。語るベクトル(対象)を図式化すれば、前者は静的な全体で、後者は動的な細部だ。言い換えれば前者は「デジタル−形式」で、後者は「アナログ−身振り」だ。語りの問題だが、形式にはそれに付随する内容があるのに対し、身振りには運動しかない。だから、あえて「身振り」(という言葉)なのだが。では、どちらがより「作品」に近似しているか?このごろますます後者のように感じてならない。
というか、近似などどーでもいいのだ。おもしろくさえあれば。
たとえば、映画。語るとは言語でということ。だが映画は視覚的であり、映画(そのもの)を語ることはできない。だからといって映画に「ついて」語るのか?映画の「ように」語るとは、(視覚的である)映画(の出来事)をまんま言語に「翻訳」すること。そこには必ず捨象と変形が発生する。だがそれは誤りではない。そこに差異が生まれるからこそ語りは「論」になり得えるのだ。
というか、なにより、「作品」が好きなのだ。