Medium Gebet

すでにデカルトにしてその萌芽があり、ヘーゲルが終わりを告げたにも関わらず、なぜニーチェはあれほど神の死を叫び、力への意志を設定したのかを考えずとも、コミュニケーションで満たされたこの世界はなんとも息ぐるしいのでとにかく祈ることにした。何に対してでもなく、何を願うでもなく、ただ留まるために。

 私は自分だけの神様というか拝むものが欲しかった。その土俗的で素朴なものを選びたかった。無論土俗と言っても古代のものではなく、国家に収奪されていない「リアル」なものを。肉体の内面に根ざした習合的なものを。
 折口信夫は戦死者の鎮魂について考えていたという、またその鎮魂のない文学ばかりだから駄目だという意見も読んだことがある。でもそんなの神道を「一神教なみ」にしたい人々の発想だし個人個人で鎮魂が出来る自由が大事だと思った事もある。上から網をかけられたってひとりひとりは嫌なだけだろうし。個人の中から静かにつながるものが祈りだと思う。
 祖母は戦争中にペットのシェパードを軍用犬として徴用されてしまった。首に上等の肉を結わえて送りだしたと言った。でもそんな犬への祈りは個人でするしかない。だけど、それでも犬のための神社は出来るかもしれない、そんな祈りはきっと、孤立しないから。魂、人の内面を上からの視点で供養するのは不完全だと思う。国家は個人の内面を空洞あつかいし、その上で鎮魂という内面の問題にまで統一を求めてくる。「より多くの人に届けるために」、「分かりやすく」。
                  〔笙野頼子『萌神分魂譜』144-145頁〕

ここでひとつの問いが。笙野頼子を読んでいても思うのだが、人はいつ、いかにして「神」を召還するのか?