思想の政治化への注釈

生まれは誰しも同じことにしたからといって、「汚く」育ち、「汚い」ものを愛してしまったとき、いったい「社会」(権力)はなにをしてくれるというのか?
ということを考えるときには、すでに「きれい」/「汚い」の区分が脳内にフォーマットされており、その区分を「綜合」だの、「脱構築」だの、どちらをするにしても結局はその「きれい」/「汚い」の区分を前提として思考しているわけで、そんな現代の思想は、どれほどのアポリアを論じえようとも、もはや自らが宙づりにしたい「汚い」という(概念的な)存在を認容した上でしか成立しえないのかもしれない。
たぶん、アーレントの「行為」(Herstellen)の概念を「無価値」の観点からいくら論じてもことは同じか、もしくは、たとえ「無価値という価値」と表記しようと「無・価値」と表記しようと、これまで「価値」の対象外だった領域にも価値記述の枠組みを導入せざるをえないという点でより深刻なのだ。
思うのは、いかにして「価値」という基軸なしに思考できうるのか(ないしできえたのか)?ということであり、そこで必要なのはおそらくベンヤミンの「静止的弁証法」であり「トランス・ポジション」というような「anti」や「de」ではない「über」の思考法なのだ。
さて、Perfumeのベストでも聞くか。

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