dear Gould

『インターコミュニケーション』の最終号を読みつつ、ジャコパスの肖像を聞きつつ、思ったのだ。

Inter Communication (インターコミュニケーション) 2008年 07月号 [雑誌]

Inter Communication (インターコミュニケーション) 2008年 07月号 [雑誌]

ジャコ・パストリアスの肖像+2

ジャコ・パストリアスの肖像+2

巻末の対談「コミュニケーションの未来 ―ゼロ年代のメディア風景―」で語られているような、メディア(おもにネット)の「同期性」、ニコ動を例にした「文脈情報可視化システム」という「経験を複製可能にしたアーキテクチャ」の問題や、そうした議論の土壌となるテーマ的にも、記述のスタイル的にも、よりコミュニケーション性の高い「世俗化」したプラットホームから自分の関心はズレているのだろうと。
というのも、上記2点の事象に通底するのが、いわば共時態(/通時態)に重きをおいた「いま・ここ」的「平行的コミュニケーション」なのだが、ベンヤミンが好きなぼくは、それよりも彼が写真論で展開しているような歴史の「焦げ穴」としての「垂直的コミュニケーション」に関心があり、むしろメディア論の文脈では以下のグールドの言葉の方が気がかりなのだから。

マクルーハン教授の「地球村」という概念、すなわちマクマード湾からムルマンスクまで、台湾からタコマまでが同時に応答するという考え方には不安を感じる。マクマード湾いるだれかが、時代的に「波長がはずれていても」、接触がなくても、モーツアルトが夢にも思わなかったようなハ長調を生きかえらせることだってあるかもしれないではないか。
 〔グールド『著作集2 パフォーマンスとメディア』野水瑞穂訳、165頁〕

『文学の触覚展』で展示された舞城王太郎の「Type Trace」はたしかにおもしろいのだけれど、仮に「読者」がすべての(とまではいかずとも多くの)作者の筆記経験をトレースすることができるようになったとしたら、そのありあまる実証性を前に、もはや解釈(というか誤読)をめぐる「議論」の余白はうまれうるのだろうか?それこそ、小説の多くがよりパフォーマンスでありエンターテインメントに、よりスペクタクルになってしまうのではないか?

グールドはなぜ「LIVE」をやめたのか?変わらず問いつづけている。