飲み会のあとはいつも青

雑誌『大航海』「特集:身体論の地平」を読む。鷲田清一氏の「身体のクライシス」で、「式」、「構え」、「強度」、「像」と転々と姿をかえ、しまいには「わたし」の内部にある外部としての「物質」になり、「界面」へと約められていく「身体」のことを考えていると、たしかに。
「わたし」の身体の輪郭は、ラカンの「鏡像段階」のように、つねにイマジナリーなものでしかなく、いつも剥き出しで外部にさらされているにもかかわらず、よくもまあ「わたし」なんぞという単位が存在するものだなとむしろ不思議に思わなくもない。
「わたし」なんてすべて流れ出してしまえばいいのに。

大航海 2005年 No.53

大航海 2005年 No.53