憎々しい肉はない

TVのつまらなさにWOWOWにチャンネルを替えると映画『いのちの食べかた』("Unser täglich Brot", 2005)がやっていた。

いのちの食べかた [DVD]

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画面上では、ナレーションやBGMなど「映画」的要素はいっさい排除され、機械的に、「リアル」に「私たちの食の裏側」が淡々と描かれている。このドキュメンタリーの方向性としては、加工工場で、機械的+無機質に次々に、食肉、となっていく元豚さん鶏さん牛さん魚さんの映像を通して、利潤と効率のみを追求しがちな、現代社会における大量生産、大量消費の食システムを問い直すという社会批判ものであるのだろうが、私の身体が感じたのはその逆で。そこで描かれている、生き物の大量殺戮シーンは、『皇帝ペンギン』や巷の動物ドキュメンタリーものの擬人法からはあまりにも遠く、リンチ映画を彷彿(ほうふつ)とさせる機械音轟く工場の描写は、あまりにも新即物主義的だったものだから、むしろ、シュールだな、なんて美的感動に囚われて。
そのとき脳の左の方ではすぐさま、『リバーズ・エッジ』で吉川こずえが吐く「ザマアミロ」という言葉が共鳴していたが、どうやら違う。工場で機械的に無機質に殺されて行く生き物の映像をみていて自分が感じた美的感動は、ひと皮膚剝がせばみんな肉塊、というある種のニヒリズムではない。むしろその、蝉のような乾いた死にっぷりに、生自体の無価値さ、というか、価値の彼岸を見て、そこに人間の生を一息に無化する、生い茂る機械の力を見たからだ。
リバーズ・エッジ (Wonderland comics)

リバーズ・エッジ (Wonderland comics)


「平坦な戦場で僕らが生き延びること」
いまこの平坦な戦場では、『リバーズエッジ』と比べ、ネガとポジの関係が反転している。「わたしたち」が死体であることは、ネガティヴとして露呈するのではい、ポジティヴとして露呈する。写真表象の問題圏で、なにかひとつ書けるかもな。