空気を肯定する

気をつけないと、モラルはしばしばエリートの味方だけをしている。

神は知だった。でも、共通不変の神である知を想像するためには、体は邪魔だった。というのも、体はまず眼に見える、そのため、万人の体がきれいだったらいいが、どうしても、デブだったり、ガリだったりというキモ感が簡単に前景化してしまう。いわば、体は抽象化できずらかった。知は光によく喩えられてきたことや、知の健全性が、透明性、という言葉で言い換えられたりすることから広げれば、体は一目瞭然、不透明だった。こうして、体は知の舞台から排除される。生のギロチン刑、頭と体の切断だ。頭がいい、なんて表現にそのことは今も現れている。承知のことだが、この発言をうけて、その髪型いいね、という意味に受け取っては十中八九、誤りだ。
そしてもちろん、こんな頭でっかちの時代は終わり、世は小頭、ならぬ、小顔の時代である。
だから、そんな小顔の時代に、私の体だけが目当てなんでしょ、という批判は響かない。というのも、体だけが目当てにできる、ということは、啓蒙の昔のように、頭と体をべつべつのものとして捉えている。また、この表現がある種の相手に対する批難+自己正統化であることから意味を類推して、結局は、私の体<私の頭、と、当人は思っている、思ってほしがっている、ということが露呈する。さらに、だいたいなぜ、どのようなときに、この体目当て発言をされるのか、というシチュエーションについて想像してみても、だいたいの場合、体目当てと言われる側はたしかに、脳足りん、のことが多く、全くその通りだったりすることから考えても、頭の悪い人による、頭の良い人への盲目的で嫉妬まみれの逆恨み感情が見え透いているというおまけつきだ。だが、この小顔の時代に、頭と体は本当はべつべつの根っこから来ているだなんてそんな単眼的な考えは全くの誤りだし、体よりも頭がいい方が良いという頭でっかちで奴隷的な考え方も、おっさんの小言以上の正確さはない。だから、ニーチェという哲学者は、知と体について、こう物語った。

身体は大きな理性だ。ひとつの意味をもった複雑である。戦争であり平和である。畜郡であり牧者である。
あなたが「精神」と呼んでいるあなたの小さな理性も、あなたの身体の道具なのだ。わが兄弟よ。あなたの大きな理性の小さな道具であり玩具なのだ。
「わたし」とあなたは言い、この言葉を誇りとしている。しかし、もっと大きなものは、––それをあなたは信じようとしないが––あなたの身体(からだ)であり、その大きな理性である。
それは「わたし」と言わないで、「わたし」においてはたらいている。
感覚は感じ、精神は認識する。それらのものは決してそれ自体で完結していない。ところが感覚も精神も、自分たちがすべてのものの限界であるように、あなたを説得したがる。かれらはそれほどまでの虚栄的なのだ。
              (中略)
わが兄弟よ、あなたの思想と感情の背後には、強力な支配者、知られざる賢者がひかえている、––それが本物の「おのれ」というものなのだ。あなたの身体のなかに、かれは住んでいる。あなたの身体のなかに、かれは住んでいる。あなたの身体は、かれなのだ。
あなたの最善の知恵のなかよりも、あなたの身体のなかに、より多くの理性があるのだ。(51-52)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

こうしていつしか頭と体はひとつになり、知は身体を得、知であった神も踊ることができるようになった。だから、どうだろう。カントという哲学者の真似をして、もし知は神であり、頭ではなく、身体なのだと考えてみれば、神とは具体的な身体だ、ということになる。そこから続けて、神は創造主であり、そんな神が身体なのだとしたら、知の、頭の、世界のはじまりはやっぱり体、まんこ、なのだ。

だから、体目当てで何が悪い? 他ならぬ「おまえ」が好きなんだぜ?