いびきを書く

「思想」は語るものではなく、使うものだ。
「思想」のテクストは「自然」から抽出されたものであるが、豆腐は大豆でないように、「思想」は「自然」ではない。だから、「思想」と「世界」を読むメディア(媒介者)である批評家は、「思想」を「自然」に対して使うことで、「思想」を「自然」に返さなければならない。言うならば、この「自然」→「思想」→「自然」の連環が成立するまでは、「思想」が先祖還りするまでは、その「思想」は読まれきれていない。
電車内。優先席の轟音。いびきについて。いびきの不快感が、岩に蝉の声が染み入ないただの静けさにもとづくならば、それを承認することはできない。キャンセリングされていくノイズこそに自由の木漏れ日が差していると思うからだ。なので、むしろ自分はいびきを肯定する。いびきとはどのようなものか?考える。いびきをかいている時に実際していることは呼吸をしているだけだ。にもかかわらずあの爆音。凄まじいかもしれない。ひとりの人間の、しばしばおっさんの身体から、ただ息をするだけであれだけの爆音が轟き溢れるなんて。叫ぶなんて汗臭い行為はしていない。ただ、息をするだけで。息をするだけであの音が轟くなんて。にょろにょろと連想が出てくるのは楽器、とくに、サックスや尺八など管楽器のたぐい。だから、こうもいえるかもしれない。いびきをかいている時、人の身体は楽器になっている。
より手短に、いびきとは身体の楽器化である、と。