らくだも反芻する

自由やアカデミズムについて。このごろ行動や性格、思考の問題を空間の観点から考えるのが好きだが、大学での議論の場、つまりゼミや講演の場所について考えをめぐらせてみた。というのも、どうも最近あの教室というやつが大嫌いで、とくに机という、つまりコの字型だか、ロの字型だか、どちらも直線的構造をしたものの側に、椅子という、これまた座る以外用途がないような可能性の薄い能無しの上に、きちん、と座ってじっとすることがはたして自由な発想であり議論を生むのか?ということに疑問をおぼえているからだ。
たとえば、シンポジウムについて考えてみても、この言葉はもともと、進歩についてジジイがうむうむ言い合う場を意味していず、語源的には、古代ギリシャでよく行なわれた、酒と音楽と談論の集いを意味する「シンポシオン」という言葉が発端となっている。まあ「古代ギリシャだからそうなだけでしょ」と言われればそれまでだが、そうならばでも、議論するためには静粛が、机に向かって椅子の上にきちんと座ることが、大事だ、という発想はいつどこでどのように生まれたのか?と疑ってもいいはずだ。というのも、いまの議論の形態が「自然」だ、というわけでは決してないのだから。
客観的をうりにする科学、主に脳科学をひっぱってきても、たとえばモーツァルトの音楽はなんらかの勉強に関わる脳波にいいのであれば、なぜ授業中や会議中にモーツァルトが流れないのか?森林の音は心を落ちつかせるのなら、なぜ川のせせらぎが聞こえないのか?ロダンは「考える人」をたしかに座らせたけど、むしろそこで目を引くのはその「座って考える」とは正反対の剥き剥きの肉体の筋美ではないのか?こう問うてみてもいい。哲学者は、なぜよく歩くのか?
というのも、もしかしたら授業が嫌いなのではなく、思考の強度をたもってかんがえれば、「教室」が嫌いなのかもしれないと思うから。天井も低いし。