イヤホンをしているきみの耳にはだれかの悲鳴は聞こえない

狭義の文献学批判、思考すること、呼吸することについて。ゲーテを理解するためにはゲーテのテクストを読めばいいという狭義の文献学的な考え方にはどうも疑問、というかむしろ、反感をおぼえずにはいられない。ここでの反感はもちろんゲーテ理解のためにゲーテを読むこと自体に向けられているわけではなく、ゲーテ理解にはゲーテのテクストを読めばいいの「ば」、その安易で計算的でケチ臭い閉じた文献の選択に向けられている。でも、そんなことニーチェとかいう哲学者がとうの昔に批判していたよ、と言われてしまえばそれまでなので、こうした文献学の閉塞性を、文献学批判、つまり学問批判ではなく、最近お気に入りの他者性と絡めて、その人の閉じた人となり批判、つまり悪口として考えてみた。
オクタビオ・パスを引けば、思考とは呼吸であるという。

思考とは呼吸である。息を止めることは、観念の流れを止めること――存在を現出させるために、空虚をつくり出すことである。思考は呼吸である、なぜなら思考と生命は分離した世界ではなく、互いに導管のごときものだから――これはあれである。人間と世界、意識と存在、存在と実存の究極的同一性は、人間の最も古い信念であり、科学と宗教、魔術と詩の根源である。われわれのあらゆる企ては、この二つの世界を結ぶ古き小道、忘れられた道を発見することに向けられている。(138)

弓と竪琴

弓と竪琴

ここでパスがいうところの「思考」とは、「対立するものの普遍的照応、その始源的同一性の反映を再発見」することを意味しているのだろうが、ではそもそもなぜそうした対立そのものの普遍的照応を行う思考は、呼吸、として表現されるうるのだろうか?と考えたとき、問題の重心は呼吸が対象とするもの、空気、に移る。パスは思考は呼吸であると言い空気を肯定している。では空気とはどのようなものだろうか?ということについて、こういうことはできないだろうか?
空気とは他者の集合である。
というのも、空気中にはなにが含まれているのかということについて想像力を働かせてみたとき、そこで考えられうるのは、窒素や酸素、二酸化炭素というのはただの「理科」信奉者だけであり、たとえば、あの子のあくびや、吐息、ため息、あのおっさんのげっぷ、咳、屁、だけでなく、流行の豚インフルエンザなんてもちろんのこと、中国で舞い上がった黄砂、車の排ガス、アメリカで大量散布された農薬、火葬場の煙などなど、地球が丸く、この空が続いている限り、すべての「目に見えないもの」は空気に含まれると想像できうる。だからきっと次のように言い換えることもできる。
いま君が吸ってる空気はついさっき俺の肺から出てきたやつだ。
つまり、空気は透明で何もないエーテルのようなものではなく、もっとも夾雑物が入り交じったぐちゃぐちゃでねっとりした空間である。パスはそうした混じり気たっぷりの空気を吸うこと、呼吸することが思考することだといった。そこには他者性への配慮が見えている。というのも、思考することは、デカルト的に、目を閉じて自己反省することと述べられてもいいにもかかわらず、パスにおいては、先に述べたように、得体の知れなさMAXである空気を吸うこと、呼吸することが思考することだということであり、文献の選択という観点から言い換えれば、マテリアルとしてさまざまな領域のテクストを受け入れることが思考することだ、と捉えられているからだ。そうした観点から考えれば、狭義の文献学という、たとえばゲーテ研究のためにゲーテのテクストしか読もうとしないくせにゲーテを研究している、と名乗る者は、私の目には、たとえ思考、呼吸していると言われようとも、その呼吸は、閉じた文献学的マテリアルという人工呼吸器によるものであり、その目的もただの生命維持のためとしか見えない。
いわば、おまえ文献、対象を絞ることが研究だとかいってるけど、結局、批判されることに対してチキってるだけじゃねえのか?、ということ。
でも、もちろん●●(●●には人物名が入る)研究、●●論すべてを批判しているわけではない。ただ、やっぱり「正しさ」に基づくような文献解釈学的領域の上で、おもしろさはもはや「デコる」ことぐらいにしかないのではないかと思うのもたしかだ。