ルイ14世曰く、私の中には太陽が宿っている

回顧と整理のための日記。目と耳をかっぱ開くと周囲は恐ろしく暗闇だったりする。その暗闇を眼の、耳の前にして態度は少なくともふたつに分かれる。ひとつはその暗闇から眼をふさぎ眠りこむこと。もうひとつはその暗闇そのものを目覚める力へと変えること、すなわち、太陽になること。もちろん太陽の光は明るい昼間には必要性を感じない、というのもそもそも照ってるから。でも夜は違う。夜が昼の襞であるうちは問題ないのだが、昼夜の襞が折りひろげられだらりと伸ばされた夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜夜となっているならばそこに光は必要とされる。だから、もし周囲が眼を背けたくなるほど暗くだらりと夜の平が続いているのならば、私はその平行する闇夜を裂き突き破る太陽になろう。太陽になって、その垂直にgiragira突き刺す閃光で新月を満月に、暗く沈む顔面を光り輝く月面へと変えてみせる。
最近私的に流行しているエレクトロニカ系のアーティスト「Ametsub」。「アメットサブ」と呼んでいたら「あめつぶ」と読むんだと教えられた。

たしかに言われてみればありあり「あめつぶ」と書いてあるし、言われてみれば「あめつぶ」と読んでもいる。でも「あめつぶ」だと指摘されるまでは絶対に「アメットサブ」だと脳内で確信していたんだよな、などということにてらてら考えを向けていると、ただこの「Ametsub」という一語をめぐって、脳内が動的に「アメットサブ/あめつぶ」という認知をダイナミックに更新、交換、ストロボしていくプロセスでありその形象が可視化できた。一方ではうれしい。他方ではなにか見慣れていようがいまかろうがすべての文字に、フロイトというもはや哲学者が言っていた「不気味なもの」の潜在性を感じてどこか気味が悪くなった、と同時に墓場からうようよ湧き出てくるバタリアンのような文字の反乱なんてのもけっこう楽しそうだななんて思った。
直接的には関係ないのかもしれないのけれど、時間がつくれたら文字とエクリチュール関連ということで、石川九楊の『筆触の構造』を読もうと。

筆蝕の構造―書くことの現象学 (ちくま学芸文庫)

筆蝕の構造―書くことの現象学 (ちくま学芸文庫)