記憶の海に溺れてたい
私的劇画化と記憶、愛について。こないだ駅の地下道で竹内結子のプレミアムモルツ広告をみて惚れてしまいああタイプだななんて思った。こんないまの竹内結子というたとえキレイ現役であれ年齢的には「年増」の女性をタイプと感じるなんてことは、モーニング娘やらアイドル好きだった思春期の自分からすれば考えられないことである。
まあそれはそうだろう、もうおまえは思春期ではないのだからという常識のヴェールはごもっともだし、モーニング娘から竹内結子という好きなタイプの変遷を束ねているのはほかならぬわたしの身体なのだけれど、モーニング娘好きから竹内裕子好きまでの跳躍を許すあまりも可塑的なわたしの身体のいったいどこのわたしが「わたし」なのだろうかと問いたくなってくる。というのも、実はこれを書いている現在ではもうモルツの竹内結子などはぶっちゃけタイプとしてわたしの中で表象されることはなく、むしろその座を元ジュディマリのYUKIが奪っている。あえて、「いまは」その座を元ジュディマリのYUKIが奪っている、ともう一度、強調した方がいいかもしれない。モーニング娘や竹内結子そのほか多くの好きだったidolたちのように、明日にはYUKIもわたしのタイプとして表象されなくなって、いまは想像もつかない森光子が好きなタイプとして表象されるようになってしまうかもしれないから(Warum nicht?)。それでもやっぱりモーニング娘が好きだったわたしと森光子が好きなわたしはどちらも同じ「わたし」なのだろうか。
とすると、このいまのYUKIへの愛とははたしてわたしめいた愛などと呼べるのだろうか。べつにここで愛の永遠性や幻想性などといった手垢のついたモラル臭い美的物語をラップトップの前で召喚したいわけではない。ただわたしの感情が結局こうしておそらくすべて風化していくのだとすると現実(Réel)そのものが廃墟にみえてくる。いま好きだはつぎの瞬間好きじゃないと全く同列の関係にあるといったように。つまり、こういうことだ。あんなに好きだったあの子のことが今ではこうもすっかりどうでもよくなってしまうのだとしたら、あの子が好きだったあの好きだという気持ちはいったい好きだったのだろうか?そこで変わったのはあの子への愛の気持ちなんてものではなくむしろ、わたしそのものではないのだろうか?
たとえば映画『バタフライ・エフェクト』(2005)
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