襞に出会うと幸せになる

最近の私的流行について。「研究」と称して映画経験における身体性などというものを考えていくうちにバラバラだった文献、引用、思考のピースは「襞」という一語においてやっとひとつの「星座」へと凝結していきそうな気がする。思えば、さいきんの日常生活におけるテーマである「女性性」についてもずっと探していたものは「襞」であったように思える。ちんこ社会に対するまんこ社会、アノ襞襞ヨ蜂起セヨ。

襞―ライプニッツとバロック

襞―ライプニッツとバロック

そのためコミュニケーションは結局ディスコミュニケーションなんだのようなわたし/あなたの壁を自ら引いておいてその隔絶した世界でああ人間分かり合えない死苦死苦などと耽溺する似非人生論めいたものには感心する。そもそもコミュニケーションが本当にディスコミュニケーションであるならばなぜわたしの話があなたに通じている/いないの選択肢をただひとつの通じていないの方にしかもネガティヴで自己悲劇愛的に絞り断定できてしまうのか。むしろコミュニケーションは通じている/通じていないか分からない、確定することができないからこそ、能動的に受動的に溺溺と繋がれ続けるのではないのか。
わたし/あなたの間に自ら裂け目をつくりその裂け目の内側で他者なき愛を叫ぶのであれば、むしろそうした裂け目でしかないような、わたし/あなたの/でしかないような、その一方で裂け目を裂け目として成り立たせつつも他方で裂け目を裂け目でないものとして成り立たせているコミュニケーションの襞を、わたし/あなたの/を生成しつつ融解させる襞を問う。