内蔵を貪り掻きたい

ただの心情吐露について。もう考える、「思想」という言葉が含むようなエッセンスを2倍増しにして、思考することに疲れて頭がまた砂袋のようである。加えて、なにやら左肩甲骨あたりがやたらと自己主張してくるし、内蔵のあたりもきのうからうずいている、まるで胃のなかで毛虫が蠢いているようだ、どうでもいいけど、この蠢くという漢字は、まことに蟲が群れをなして喪ゾ喪ゾと「うごめいている」感じがでていて迫真性がある、なにかいっそのこと、えいや、とスポーツ選手や芸ごとのような反復を繰り返し意識ではなく身体的なパフォーマンスに強度をきざませる分野に鞍替えしようかと思うけど、それはそれでその分野のひとに失礼だなあ。ああ曇天、曇天。
なんてからからタイピングしていると、感覚では左脳の方から天啓にも似た声が聞こえてきた、というのは嘘1200で「落語家になるには」でググったところ、落語家になるには師匠の門をたたくしかない、という文章を目にした矢先そこからまた思考が刺激、変換されてなにか己で道を切り開くことの楽しさがむくむくイメージされはじめ、師匠の門戸をたたく弟子入りさせてもらう、教えを恋う、ということに見える謙虚な姿勢も、「謙虚」という言葉が含むような静かで内向きなイメージとは違って、けっこう冒険的でありまた野犬的であるのかなと思ったらなにやら今後というものが来るのならそれはそれで悪くないかもな、なんて結局また安直に思ったのである。
「謙虚」という言葉の響きはそう考えるとなんだか鳥の鳴き声のようにも聞こえてくる、ケンキョ、ケンキョ、と。
そうしてまたこう結論づけてみた。自分の生活に対して、なにかこう社会に対するある種の申し訳のなさであり、かっこわるさ、「存在」のなさを感じているのは、インプットばかりでアウトプットがないからだ。それはまた次のように言い換えることもできる。つまりインプットには責任が伴わない、より具体的にはたとえ研究のためと称していても読書するという行為自体は「趣味の読書」と大差ないが、アウトプットにはある種の職人性(プロフェッショナリティ)のような責任が伴う。だから、ここからもう一声発展させて、インプットばかりでアウトプットをしないことは社会的な責任からの逃げだ。
てなことを考えていると、むくむくとまたやる気が勃起してきた、バンザイ。