起こりうることはすべて起こりうる

親の小言とひとつの生きしるべについて。基本的に親の小言は「親の古言」以上に聞く耳をもたない。が、ひとつ心にとめている小言がある。それは、なにかがつまらないのはおまえがつまらないと感じているからだ、という説。かなり当たり前だし、ヘタをすれば独我論にも陥りかねない論法だが一興はある。というのも、そこにはなにかつまらないと感じている対象に対するやさしさがあるからだ。つまり、その対象XがつまらないのはそのXをつまらないと自分が感じているからつまらないのであり、そのXを自分がおもしろいと感じるようになることができれば、Xはおもしろくなる、ということ。これをより個別の対象から一般化すれば、日常がおもしろいかつまらないかどうかということは、日常にその原因があるわけではなく、お前が(!)日常をおもしろい/つまらないと感じるかどうかに懸かっているということになるだろう。もちろんここには、「やさしいメルロ=ポンティ」解釈に見られるような他者性の余白をうめつくす対象との無批判な融合の危険性も含まれているだろうが言説的な正しさはこの際、棚上げする。いまは、いまの生活には行為遂行的にこのテーゼ、つまらないのはおまえがつまらないと感じているからだ、を採用しよう。
不測の事態というものはない。なんらかの「不測の事態」が起こったときに明らかになるのは、その不測の事態を予測できなかったことではなく、逆に、予測の事態など、予測できる事態などなかった、ということである。ならばやめよう。なにか安定や平常を、生活のスタンダードを自分のなかに設定してそうした「こうしようと思っていたのに」という生活の規範に死傷を与えるひとやものを邪魔モノ扱いしてつまらないと退けるのは。そもそもないのだからスタンダードなんてそんなもの。Maurice Merleau-Pontyというフランスの哲学者をひけば、「習慣はつねに傷ついている」のだし。