甘えたいときはふたりでただひたすら無言で飲もう

自分の唱える燃焼理論について。自分は、自分に対するなんらかの甘えをつくらないために、甘えが発生しうる原因そのものを願望的には消去するために、結局のところはおそらく抑圧するために、その手段として意志を設定し、意志の強度によって散漫な活動を束ねるような意志的生活の要約ないし理念として、燃焼理論というものを勝手に心に誓っている。
燃焼理論とは、ニーチェの歴史概念、ベンヤミンの経験概念、ドゥルーズリゾーム概念から思想、思想の着想を得ており、ロマン派のようになんらかの過去に耽溺するのではなく、だからといってモダニストのように過去を削除するのではなく、過去の出来事を現在に措いて燃焼しつづける、ということをイメージしてのことなのだが、そこでなぜ「燃焼」という語を使用しているのかというと、それはモノが燃える、モノを燃やすことが最終的には灰に至るように、現在において過去を燃料として燃やしつつも、つまりなんらかの形で活かしつつも、最終的にはその過去という燃料じたいを灰になるまで燃やし尽くす、つまりある意味で消去する、自分はこのことを一方では「愛した思い出」のアナロジーとしても考えているのだが、というイメージを含ませたいからだ。
また、燃焼→灰という目的であり結果であること自体にも自己反省的な意味がある、つまり燃焼は灰を残すということが味噌なので、甘えをつくらないためにたとえ意志の力ですべての依拠すべき過去、現象を燃やし尽くそうとしたからといって、すべてがきれいさっぱり燃え去るわけではなく、一種の「澱」としての灰、すべて燃やし尽くしたかった思い出の痕跡がいわばフロイト反復強迫理論的に無意識下に残るという意味で、意志的生活を燃焼の比喩で表していたのだが、アガンベンの『スタンツァ』にもこのいわば過去の燃焼としての現在に応用して使えそうな記述があった。それは、その書の中でアガンベンが引く『テアイテトス』におけるプラトンの(燃焼と)蠟の関係である。

われわれの心のなかには蠟のかたまりが〔素材のまま〕あるのだと、こう思ってくれたまえ。それは人によって、どっちかといえば大きいのもあるし、比較的小さいのもある。また比較的清らかな蠟からできているものもあれば、比較的きたないものからなるものもある。またどちらかというとひからびたものもあるし、比較的やわらかいものもある、そしてそれのほどよいのもあると、こうしてくれたまえ。(…)それでは、それをわれわれは詩歌をつかさどる雅神ムゥサイたちの母神なるムネモシュネ(記念、記憶)の賜物であると言おう。そしてそのなかへ、何でもわれわれが記憶しようと思うものを、何にせよわれわれの見るもののうちからでも、聞くもののうちからでも[中略]取って、その感覚や思いつきに今言った蠟を当てがって、その形成をとどめよるようにするのだとしよう。

スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ (ちくま学芸文庫)

スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ (ちくま学芸文庫)

156頁

たいていのことは「私の個人主義」、人は人だからとして許容できても、甘える、甘えてくることだけはどうしても受け入れられない。その理由はちゃんちゃらおかしくて、一番甘えたいのは俺だ、というナルシスティックで他者を蔑むことによって自己を肯定、美化する実際は自分に甘甘であることに原因があるのだろうが。ああ、できれば意志によって空気を燃焼したい。とりあえずいまは、する、とは言えず理論的な説得力もなくただの願望のひとつに過ぎないが。