戦後復興景色

雑記、「自閉症」と壁理論について。明治神宮を歩く傍ら表参道口の前で「詩人」を見かける。彼の詩には「無職よりも夢職」のようなあまりにもきれいで素朴な夢の言葉遊びが塵ばめられていた。でも、そうしてあまりにもきれいに夢を語ること自体、夢を語ることが健全でピュアであること自体がそもそも近代が誘う催眠だったのではないだろうか。
自閉症という、行動のあるじ(主体)が何らかの克服できない困難に陥った際にマゾヒズム的に自己の内側に閉じこもる出来事は、むしろ「自塀症」と書いた方が生産的だろう。自閉症と記して、困難の克服の焦点を自己を開くか閉じるかの問題に帰してしまうと、問題を内在化してしまい、閉じてる私が閉じてる私を開くといった、反って閉じた自己探究を起こしてしまう。開けないから閉じてるのに開けとは無下な、でも開かなければならない開けないから閉じてるのに、と。そこには「〜からの自由」といった外部への可能性が担保されず、いつまでもこの私が憑きまとう。
それに比べて「自塀症」では、問題を「塀」に見立てることで、その問題を自分からある程度の距離をとらせ、いわばその克服したい問題の焦点を外在化する。つまりその問題は分析しようによっては、俺如何とは今後関係のないことでもあるのだ、と。頑張れば回復することができるのだ、と。きっと塀の向こうではまた新たな「私」という出来事が待ってるのだと。そうイメージすることで克服、回復不可能な困難は少しずつこの私から剥がれ始める。