ドラマ天狗

雑記、「現代の思想」について。自解の意味も込めて、今ひろく身回りで出会う、語られる、論じられる「現代思想」は、痒くて痒くて堪らない知的かぶれのための痒み止め薬のように思う。よりムゴく言えば、流散知人が乞うママのおっぱい。
たとえば佐々木敦の『ニッポンの思想』。彼の薦める映画などはしばしば参考にしている。面白いものを知っている人だなというのが勝手な人物評。でも、立ち読みした『ニッポンの思想』。曖昧な記憶によれば……、『ニッポンの思想』というタイトルと、論じられているニッポンの思想家たちの目録を見て、読者は以下の3つの疑問を思うだろうと、冒頭に立てられた三つの問いの内のひとつが以下。
なぜ、おまえが書くのか?
と、嘆息。本パタと閉じ。彼が想定している多くの読者は思うのだろうか?そんなどーでもいーtoy。2010のデジタル年を迎えたいまや思想なんてそもそも私想と同義じゃん?というのがわりと人口に膾炙した意見ではないのか。にもかかわらず、「なぜ、私が書くのか」ということをわざわざ前書きで枕のひとつに挙げているところを見ると、ゼロ年代とかテン年代とか唱えて伝統に対する革新を売りにしているけど、本当は伝統に受け入れてもらえない自分がなんだかんだ淋しいんじゃないの?とつい悪い勘ぐり。日本でもなく、にほんでもなく、japanでもなく、「ニッポンの思想」と記してサブカルぶったってダメ。
そんなもの早く棚上げしてしまえばいいのに、論壇だとか思想だとか批評だとか最上段から振り下ろされるカテゴライズのフレームやそこで交わされるコミケーションの話題は。頭カチカチ派(そんな派閥ないか)のアドルノだって「知性の目印は、『手探りする眼』がついているカタツムリの触角である」(527)と喩えたのだし。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

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