しかしまあねなんというか殻

日本系の思想家、吉本隆明は「文学を書くことは自己慰安だ」と言った。ここに自分は「文学を読むこと」を加える。というのも、文学を読むことはただ本を読む、その両手ないし片手で紙の束から成った書物を餅、ページを繰ることだけを意味するわけではない。文学を読むためにはまず読む本を見つけなければ始まらない。その見つけは必ずしもたとえば部屋のなかで見失ったメガネを探すようになにか特定の目的でありプランがあって見つけ、見つかるわけでもない。
ときに自己慰安に結びつくような本を見つけることは、ときにと言わず大袈裟にはほぼたいていの場合、偶然であってそれはもはや「出会い」と名づけてもいい。こんな本が必要だという渇望めいた気分とまさにそのこんな本が見つかる時分がたまたま瞬間的に嵩なるのだから。そうして文学を読むこともまた書くことと同様、気分と時分の照応というただの受動性でない能動的なクリエイティビティも含んでいるのだとすれば、文学を書くことと同様に文学を読むこともまた自己慰安だとテーゼしてもいいだろう。カントかな?かえるかな?かっぱじゃないよ。
でもなぜ吉本隆明はわざわざ文学を書くことは自己慰安だと言い、その自己慰安性を強調したのだろう。べつに自己慰安なんて友達としゃべったり、好きな音楽を聞いたりで満たせばいいじゃないかい、そこに空洞。空虚で、あまりにも。
よく死ぬことを目指すことがそのままよく生きることの閃光した裏返しでありうるのならばたしかに「死ぬために書く」といったらしいブランショに従ってみてもいいかもしれない。って暗いなあ。