カタツムリはジャンプできない

安部公房箱男』読中。もう肉汁滴るメディア論かつ身体論。となるとガチの哲学、とはつまり「なにかについてだけ」その公式をえんえんと述べているような哲学といわれる記述法の存在意義、とまで言わなくともおもしろさは如何に?この問題域は哲学をするないし書く側にあるのではなくおそらく読む側にある。つまりいまさら神についてだの実存についてだの観念論だのについて書いてもそれはそれで問題は哲学もまたいわば「物語」のひとつの形式だということを読み手側がしっかりと認識することにある。もちろん哲学と小説では形式が違うのだけど。形式が違えばもちろん内容もそれに応じて異なるのだけど。いわば哲学だって小説とは違うといえども「そういってみるテスト」にかわりはないのだと。だから問うて考えてみておもしろいのはなにをではなくなんでそんなふうに「そういった」のかだろう。その「そういった」は正しいのかではなく。

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

たとえば岩波文庫によればツァラトゥストラはこう言ったらしい。どう言ったの?ではなく、なんでそう言ったの?と考えてみる、テスト。しかしとなると問題域はその哲学的な証明の整合性批判ではなく実践的に比喩解釈ないしレトリック解釈の問題になってしまうのかな?霧、霧、霧。