現前するおもいっきりの非現前を、やさしさを。

私はいつまでもむなしく自問するだろう、この映画を評価しようとする誰にとっても、次の問いはよい問いたりうるのではないかと。それは、この映画は、〈役者〉が演じる主体(要するに「私」)をまったく見たことがないだけでなく、彼の著作をまったく何も読んだことがなく、彼のことを聞いたこともなく、彼の名に出会ったことさえないような者にとってどのように見られうるか? これこそは正しい基準ではないだろうか? そうであるとも言えるし、そうでないとも言える(このような調査はしなくてはならないだろう。しかし、正しい基準がないことは、正当な批評的審級がないことは、前もってわかっている。そして、映画祭の審査員の存在は、事の本質に何の変更も加えない、審査員の権威とはつねに簒奪されたものであり、分析可能なものである。ある基準がなくてはならないとしても、それはあらかじめのものではないだろう。映画がそれを発明し、みずからそれを産出し、正当化しなくてはならないはずである。映画は基準を引き起こさなくてはならないはずである、みずからの法のように、みずからの観客のように、そして、毎回、一人一人の観客にとっての、ある独異な法を。視聴者の尺度が気になる人々には、これは最良の保証ではないだろう。しかしそれは、おそらく、最良の賭けではあるだろう。そして、いずれにせよ、唯一の将来である)。(122-123)

言葉を撮る―デリダ/映画/自伝

言葉を撮る―デリダ/映画/自伝

いつか誰かが人は男だといった。それに対していつか誰かが否、人は男ではなく女だといった。それらに対していつか誰かが否否、人は男であり女だといった。では植物である私はどうしたらいいだろう?
異システム間の移動=コミュニケーションはつねに差異のシステムでありえ、つまり、差異と反復を生み続けるならば、そうして止揚がつねに古い差異の痕跡を隠蔽し続けるならば、もう否定することはやめて、その皇帝を脱構築してやろう。
でも、たとえ「一人の盲者に関する複数の手紙=文字」といったところで、この声は結局、誰に届く? ならば、どうしても現前の対話の方が、フィードバックとインプロビゼーションのKommunikationの方が間主観的なコミュニケーションだと言いたくもなる。
文字はまた暗号だから。でもそれはそれで余白=思考を生まない祝祭めいた少しナチの香り。

暫定的に、要はきっと「正義」や「理想」などの意味論的なこととは関係なく、自分になにならできるのか?そして、誰に一番に届けたいのか?
歴史に? よくできた話だね。その痕跡は泣けてくるよ。
少なくとも、主体はない、などと大ボラ吹いてその「書く」という行為そのものを全く顧みない「ポストモダン」的言説は絶対に認めない。
ニーチェは晩年なぜあんなにも舌っ足らずだったのだろう。病を思考すること=思考を病ませること、病の思考、思考の病。