像よ

だいたい最初の一撃はタイガージャンプ。生きていることはコミュニケーション、文化人類学的な用語のニュアンスに落とし込むならば「贈与」だとしてみる。ドイツ映画の『BIS ZUM ELLENBOGEN』(2007)で描かれていたが、たとえ死体でも初期状態では腸の中に残っているガスが何かの刺激に応じて「おえええええ」と声のようなものを吐き出すように、生きていることは自分の中にある何かを外へと吐き出すこと、たとえそれが排泄物系であろうと、シグナル系であろうと、種子系であろうと、例は限りない。飽くことなくもうもうと生え続ける髭や髪、産毛などの毛髪類もそうした外への身体的な欲望の現われであるだろう。生はつねに新陳代謝を繰り返す。生もまた差異と反復の運動である。ならば、グラビアアイドルの2次元ポスターを生のデフォルトとするような、静止し閉じた鏡状の生のモデルではなく、まさに贈与交換―交感の運動に、コミュニケーションという領土なき間(あいだ)に生のモデルと、さらには他者の芽生を見よう。
とにかく「贈与」の概念を考えるためにもMarcel Maussの『贈与論』と小田亮の『構造主義のパラドクス』は必読だろう。

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

構造主義のパラドクス―野生の形而上学のために

構造主義のパラドクス―野生の形而上学のために

ドイツ系のアーティストJoseph Beuysが標語として「どんな人も芸術家」(Jeder Mensch ist ein Künstler)と言ったように、人間である以上すべての人はなんらかの創造行為(Soziale Plastik)に携わっているとすることには賛成する。だがそこで「芸術家」という特定の職業名を、しかもBeuys自身が属する職業名を使ってしまってはその「やさしい」標語にイデオロギー的な別の冷たい意味の磁場が入り込んでしまう。
単純なこと。アリストテレスが『形而上学』でまず人間の始源として設定したように、ギリシア古代の昔から「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」とするならば、そこから敷衍して、「ホモ・コムニカンス」(今村仁司)。人はコミュニケーションする。