ビニール傘とブックカバーにおける共通性について

私は自分のしている行為を隠すということがわからない
人前でハナクソをほじらないとか、
努力を人に見せないとか、
そういうことはではなくて
自分がしたくてしているのにも関わらず
それを隠すという行動をなぜとるのだろう


テレビが好きでよくみているのに、
テレビを見ていると言わないだとか
グレイが好きなのに、
エリック・クラプトンが好きだと言うとか
なによりも
みんななぜあんなにブックカバーを付けるのだろう
そもそも
あれはなんのために存在するのだろう
もしあれが本が汚れないようにするためではなく
自分の読んでいる本を隠すためだったとしたら
いよいよ訳がわからない
スポーツ新聞のエロページはなかなか堂々と読むくせに
なぜあんなに読んでいる本を隠すのだろう
別にみせなきゃいけないわけじゃない
でも、あそこまですべての人が
ブックカバーで均一にならなくてもいいじゃない
それじゃビニール傘で覆われた雨の街と同じだよ


自分だって前は
この別名、多毛田髭男のような私が
電車の中で「NANA」を読むのが恥ずかしくて
ブックカバーを付けたりなんかしていたけど
考えてみたらそれはおかしかった
だって自分がその本を好きで読みたいと思って
読んでいる本を隠すってことは
それは自分を否定しているってことでしょう
そんなことなら辞めたほうがいい
自分を嫌いになる努力はしなくていい


だから自分のことはすべて晒せ
自分のことを隠すことにエネルギーを注ぐぐらいなら
自分のことを隠さなくてもいいようになるためにエネルギーを注げばいい



別にこんなこと書くつもりじゃなかったのに
いつのまにかこういう展開に話が進んでしまった
私は短編作家にはなれないな