画を観て泣いた日 −連重(れんじゅう)−

藤田嗣治展』

ここにひとつの問いがある。
人は絵画を観て泣くことができるのか否か。
答えは、否の否。できる。
私はいつかのこの日の今日、フジタの画を観て泣いたのだから。
初期の乳白色の美に始まり、中期というのか、南米に渡っての色彩あふれる立体的な構成美、そして戦中期のすべてを無化してしまうような戦争絵画における群像美、仮にあれを「美」といって良いのであればの話だが。一瞬にしてがらりと退廃的な雰囲気へと様式を変えた絵画に誰もが息をのんだ。と私は思うのだ。ヘタな戦争の記録の書物よりもその悲惨さへの純粋さがある。
フジタを今日(当時の)はじめて知った私ではあるが、戦争絵画の前に立ち、その彼の絵画人生における“終わり”を感じた。むろん勝手に。だが、それは誤りにすぎなかった。戦後、数年のその余波が残る画風の後、乳白色の美が帰ってくる。同時進行的に書くならば、きた。しかもただの回帰(元通り)ではなかった。『カフェ』には私の知る限りの、少ない、彼の人生のすべて、つまり、乳白色の美、構成の美、群像の美、がつまっていた。そのとき私の頬を一筋の水滴がつつとつたってもけしておかしくはないであろう。実際は、そんな美的なものではなく、うるうるきてぽろとあふれた程度の話。なぜなら、そこ(カフェ)に人生の意味を見たからだ。
人も物も効率価値に基づく速さのみ、は言い過ぎだが、に重きがおかれる現代において、老いに伴う経験の蓄積はさほどの価値をもたない、なぜなら経験の蓄積以上に老いは肉体の衰退、これは速さと置き換えることもできる、それに伴う保守的反動を引き起こすからだ。つまり一度老いたものは、自己を新しく生まれ変えること、時点以上の創造をすることができないのだから。などと主張をするものが如何に誤りであるか。老いること、たとえその全体が有限であり、消耗的であろうとも、今日を連ね重ねていくことに、それは“無駄に”でもだ、どれほど素晴らしい価値があるのか、大切(かけがえのない)であるのか、その象徴であり答えが流れた涙にある。