たとえ英語で「Not」と言われてもドイツ語なら「Need」にもなるから安心だ

ぽつと思いついたことをnoteする、そういうことがとてもnotだと思う。

時代は「身近社会」になってきている。それがインターネットの影響だと言いたい。チープ革命の影響も少なからずあるだろう。だがこれはかなり恣意的で主観的だ。だから「たい」と魚に希望を託すだけにする。その兆候は至るところに見られる。ヲタクの隆盛なんかそうだ。典型的なオタクつまりヲタクが好きなものは「偶像」ではない。「実像」だ。だからヲタクはネットアイドルだったり、声優だったり、メイドたちだったり、ヲタクによくしてくれる、頻繁に身近に接してくれるモノを好む傾向がある。写真会、握手会なんかもその一例だ。だからサユリストみたいなものはあまりヲタク化はしづらい。あまりにも手が届かないからだ。
それだけじゃない。「エビちゃん」。これはほぼ日にもあったことだが、この呼び名はおかしい。今をときめく超売れっ子モデルに「エビ」の響きはいけない。受け手にザリガニのぶつぶつして嫌に赤くてどぶ臭いイメージを喚起させてはいけない。でも時代は気軽に「エビちゃん」だ。もはやエビちゃんエビバーガー(フィレオ)をみんながむしゃむしゃ食べている。
神は商売にならない。ローマ教皇庁公認キリストのプリント入りTシャツ、は誰が待望しても販売されない。こういい切らせてほしい。なぜなら神は私たちのような下々のものたちが扱うことが許されないほど遠い存在だからだ。では例は極端だがその逆。近い存在。これは商売になる。モノは物理的にも精神的にも、ある遠さから反比例すればするほど誰がどう扱おうとかまわなくなる。その白地Tシャツは無印良品のパクリだといっても無駄だ。だから遠さの反対であり近さは商売になりやすい。なぜならそこには権利と責任がないから。もちろん著作権の抵抗もある。しかし現状としてはワンクリックですべてのものが手に入る。グーグルは欧米で過去200年の記事の検索サービスを開始した。200年前、フランス革命には少し手が届かないが甥のルイ=ナポレオンにならば十分に手が届く。ヒトラーは昨日のことのように近い。
展示価値がどうたらは敢えて書かない。そこまでくればたちまちQUEENのDON'T STOP ME NOWが流れ出す。これはメモにすぎない。しかしこうなると今またベンヤミンが再認識されていることに十分うなづける。時代は圧倒的に身近だ。首相でさえストラップになる。
でもそういえば複製技術の最後は戦争だった。