かつてニーチェは「わたしが神を信ずるなら、踊ることを知っている神だけを信ずるだろう」と記した。
最近ダンス映画ではなく「映画におけるダンス」が気になっている。というのも、『花とアリス』、『フラガール』の蒼井優といい、『バス男』のション・ヘダーといい、映画の中のダンス(シーン)には、連続する物語に裂け目を入れ、映像空間すべてをダンスに「縮約」する、言語を解さない直接的で強度的な「力」のようなものを感じるからだ。
では、この映画『センターステージ』ではどうか?
片鱗は見られるものの、ほぼロングで固定したショットはまだ物語の後味が残る。それともうひとつ分かったこと。上気のダンス「力」は群舞からは生まれない。というのも、人が複数集まる群舞にはどうしてもストーリーが発生してしまうからだ。
ヒポテーゼ:映画におけるダンスの「力」は、単独のダンスによって生じる。
大ラスのダンスシーンを除けば、この映画自体はクソだ。ああ、ダンス映画ではなく、「映画におけるダンス」が見たい。が、これはなかなか検索が難しい。くわ。