実験としての思想、実践としての思考

自分にとっては、思想も小説と等しいから、きっと内容よりも思考の身ぶりが(小説でいうなら記述の運動が)気になるのだろう。しかし、それはそれでひとつの「実践」だ(といいたい)。
たとえばフーコーでいうなら「人間の死」のようなターム自体は(いわば、)どうでもいいんだ。それより、「人間の死」というクリティカルなタームから波紋している思考の身ぶりそのものを思考する(纏う)ことの方が思想なのだ。だから問いはつねにWasではなく、Wieなのだ。でなければ、思想なんてただの資料集と同じだ。
後日談。いや、いかん。「●●の方が●●だ」なんぞとつい勢いあまって本質論めいたことを書いてしまった。ただほんと今は化石かもしれない思想だってそんなに「あえて」捨てるほど突飛なものでも、つまらないものでもないんだ(といいたい)。