小説のストラテジー

小説のストラテジー

ヴィジュアルなものに対する批評法について倉石信乃の『反写真論』から大きな影響を受けたが、それと同じかそれ以上に、初読当時、小説を「読む」という行為の楽しさについて多大な享受を受けたこの本を、論文執筆にあたり再読すると、やっぱりおもしろい。中でも今回とくにおもしろいと感じたのが、佐藤亜紀が「記述の運動」の方法論を説く際に引き合いに出す例が、音楽、絵画、映画とどれも非言語なものであり、彼女の「読み」が(いわば)言語の非言語的読解に基づいていることだ。

受け手に対しても読み手に対しても、従って、まず要求されるのは表面に留まる強さです。作品の表面を理解することなしに意味や内容で即席に理解したようなふりをすることを拒否する強さです。芸術作品を、あくまで知覚が受け取る組織化された刺激として、眺め倒し、聴き倒し、読み倒すものとすること、表面に溺れ、表面に死に、あくまでも知覚のロジックにのみ忠実であること、深層の誘惑を拒み、そこにあるとされる意味が知覚の捉えたものを否定したり、ねじ曲げたりするのを拒み通すこと。[…]誰も聴くことのない音楽、誰も見ることのない絵画、誰も読むことのない小説はあると思います。[…]口を開けて待つだけの消費者には謎でしかない作品があります。そうした作品の存在を知っているなら、むしろ芸術はディスコミュニケーションであること、理解は不可能であることを強調しなければならない。
                               〔上掲書、23-25頁〕

思想(書)をこの方法論で読んだとき、なにを、この「記述の運動」で読むことによってしか見えてこないなにを、論文に浮かび上がらせることができるか。