めんたいは埋もれたころにそっと腐る

街でモードな自転車に貼られた「Fuck Bush」のステッカーを見る。きっと、そこに他意はないのだろうが、なにかアメリカから遠く離れたここ日本で「Fuck Bush」ということの歪さ、そして、記号化の恐さを感じてしまう。
「Bush」というコトバの中は本人の見識に関わらずつねに空洞だ。その言葉がたとえ「U.S.A.」であっても変わらない。世界は機械論的動いており、なにか単体をぶっつぶしたところで変化はない。
にもかかわらず、そのBushを「Fuck」と言えてしまうこと、「Fuck Bush」というある種のイディオムが成り立つことのどうしようもなさ。また、自己の前提条件を問うことなく、安定したシステム上で盛んに繰り返されるブルジョワ的なアンチテーゼそのものの形骸さ、つまらなさ。
つい、「とんとリアルが見えねえ」なんて、弥次喜多みたいなことを言いたくなる。