めがねに「たまる」巻

『めがね』をはじめて見たときは、「自転車」のシーンにジーンときて、2度目にみたときには、ラストからの円環構造になっている冒頭の「出会い」のシーン(だから、言ってしまえば『めがね』にはじめと終わりはない)にジーンときて、もう片手ではおさまりきらないこの頃は、「かき氷」のシーンにジーンときている。
いま『めがね』に感じているものを一言で表すとすれば、その「かき氷」シーンに代表されるように、「時間のたまり場」だ。この『めがね』の「たまる」という出来事。昔はよくやったが、いまの自分にはフィジカルの面からも、メンタルの面からもおそらくできない。
なぜだろう?と考えるなら、きっとそこに、ベンヤミンドゥルーズニーチェのベクトルに共通する、「時間イメージ」の問題が見えてくる。
そして、もし『めがね』に上記の問いのなにがしかの回答が見いだせるならば、『めがね』の魅力は「いやし」では納まりきらない、もっとラディカルでアナーキーなものなんだ。