おかえらない

疑問だった。さいきん自分はなぜこうも「身体」、いや、「身」を中心にものごとを考えるようになったのか、と。
考えていた。本を読んだ。そこに、こうあった。

ほんとうに大事なことは、何ひとつ教えることができない。この自覚のないところに、教育があるだろうか。学ぶということが成り立つだろうか。学ぶのは、この自分が学ぶのである。生まれてから死ぬまで、身ひとつで生きる自分が学ぶ。この身を通さないことは、何ひとつ、それこそ箸の持ち方ひとつからして覚えられない。体を使わない勉強だって、それとまったく同じである。この身がたったひとつであるように、私の心も、気持ちもただひとつのものだ

独学の精神 (ちくま新書)

独学の精神 (ちくま新書)

「」つけると、まさにこれだった。
というのも、自分にはもはや故郷「というもの」がない。魂はベルリン銀行に預けてきた。んで、将来、生きていれば、売ろうと思う。んでも、ベルリンはきっと買ってくれない。なぜなら単純じぶんはJapanerだから。ユダヤの歴史はそう読めた。てか、ぶっちゃけベルリンごときに俺の魂は売れぬし。かといって、Japanに帰ってきてもすでにこころに故郷「というもの」なし。
世が世なら、国賊とでも非国民とでも売国奴とでもカテゴライズされるのか、もはやこころに、日本は日本だから好き(笑)、というトートロジカルな愛はなし。むしろ逆。そのガラパゴスなcuriousさが日々、目に、鼻に。日本は良くも悪くも島国だ。これ以上以下なし。つまり、自分には、日本「というもの」はもはや帰るべき!愛すべき!故郷を意味しなくなっていた(周りからはすでにnationalではなくpanasonicと呼ばれてはじめている)、とさ。
すると、どうなるか。止揚(aufheben)して、脱構築(déconstruction)して、故郷を失った(heimatlos)、「帰還なき身体」になりました、なんて、んなことたあない。むしろ逆。こうなる。自分には出生や土地、国によって保証された故郷「というもの」がない、それでも故郷があるとするならば、それは、自分の、この身ひとつ、と。つまり、俺が故郷だ。独我論と違う。より単純。自分は自分にしか帰れない。「」つけて、「もっと解りやすくいえば、党派心がなくって理非がある主義なのです」(なつめ)。
てか、そこから始めるしかなかった。海の向こうに、故郷なんてなかったから。
すると、どうなるか。意外な副産物。とは、こころより他人「というもの」ぶっとぶ。というのも、自分(の身)=故郷だから、もはやこころに内輪の人々なし、すると、外輪の人々もなし、すると、内輪と外輪の区別必要なし、というか、内輪と外輪の区別がもはやぐだんぐだんだし。たとえば、自分のほか、みんなが「さとうさん」だったとして、はじめのうちはいつもきちんとみんなを「さとうさん」と認識しようとするんだけど、ゆくゆく、めんどくさくなって結局、てかどうせ俺のほかみんな「さとうさん」なんだから、もういちいち「さとうさん」だと思う必要なくね?、ってなる。
てか、そもそも、知り合いじゃない人、ではなく、他人「というもの」があると、なにかの役に立つのだろうか?これがはやりの「早期諦念(Resignation)退職」とかいうやつだろうか?
花*花、疑問だ。