ふむ、くまった

難題。記憶とアイデンティティ、意志を行動のモチベーションにしているのであれば、記憶と意志の問題、と言い換えてもいい。たまたま観た映画『グッバイ・レーニン』、『メメント』がたまたま記憶つながりで、さいきんの自分のベルリン+ベンヤミン追憶生活とちょうどまたつながって、いろいろ黙考の糸くず。
疑っているのは、なにか現在の発端となった、動機、ないし、それをつらつらと描写する、自分語り、というやつ。また、そのまばゆい一貫性、ないし、純粋性。
なぜか?現在はもちろん過去の集積なのだけれど、過去はおそらく語るたびに、思い出すたびに、それを語る現在の自分の状況に合わせて、ネガティヴにもポジティヴにも、書き換えられる。だとすれば、美辞麗句と自己顕示欲で厚化粧された「履歴」を意志のヴェールでもって溌剌と語るのはださい。つまり、そのおまえの疑いのないモチベーションの素となっている、いまのおまえによって解釈された、過去の「経験」そのものがすでに疑わしい、ぐずぐず、でねーのか?と。
では、自分語りにおいて、結局、いつも沈黙するのか?おまえのポジションはいつも中空におくのか?考えつく、モメントの打開策はみっつ。1、それこそかなりBenjamin的な意味でものごとの「アクチュアリティー(Aktualität)」に従う。2、それこそかなりHeidegger的な意味で「大地」に従う。3、ここまで哲学系できたので、無理やり、Wittgenstein的な意味で「沈黙」する。んん、あと、もうひとつあるな。4、もう、いっそのこと「真実」を「表現」してしまう。んん、これもわりとBenjamin的なのかな?やるねー、彼。
私はもちろん1、2、3、4、すべて選択します。
「対話」が自分を考えさす。どうしたら、「正直」になれるのか?どうしたら、自分にガチンコになれるのか?なぜならそこに「痛み」があるから。愛してるぜ、他者さん。