「人生」などという字ははやく黒で塗りつぶせ!

ものすごいメモり癖があるが、もっとも大切だと思うことはあえてメモらないことにしている。なぜなら、現象の目覚め、「無意志的想起(mémoire involontaire)」を信じているからであり、トラウマとして反復強迫的に想起しないのであれば、その現象はじぶんにとって結局のところたいして大切ではないと思うからである。だから極端にいえば、メモすることについて、こうテーゼ化することができる。
メモするのは忘れるためである。
とすると、日常的な記念ないし記録写真について以下の3点のことが言えるかもしれない。記念・記録写真を撮ることは(1)対象の私物化、または、距離化(Distanzierung)であるか、(2)忘却のサイン、嫌みで「意思表示」といってもいい、であるか、(3)アラーキーのいくつかの写真のように、時の、関係性の、表現である。
とはいうものの、高密度情報化の中で、あえて(!)平等精神をもとに、ほとんどのことはむしろ二度と思い出さない、だからこそすべてを記録したい、小市民的写真家には、涙をおくりたい。小さな革命家だから。



そういえば、電車の中で、ひさびさに恋の気配。彼女は方言をしゃべる。オリエンタリズムの問題を他者性や外への思考にずらすことはできないだろうか。


■追記■
ころごろあまりにも多く、そろそろ限界なので、吐く。なにを?
「実は、なにかいまやっているAではなくて、ほんとうは他にしたいBがけっこう具体的にある。でもいまのAという自分のおかれた状況から離れることができないから、Bがやりたくてもできない」というのは、悩んでいるのではなく、すでに決断しているのだ、ということをはやく受け入れてほしい。このごろの『おやすみプンプン』的な、このわざとらしい真剣さが一番つまらないし、一番むかつく。そんな自分、ぜったいに粋じゃないぜ!(ゲーテ