この国にいかにして「出口」をつくるのか?

帰国後、東京ではじめて花金の終電にのる。そこで、ほんとうの泣きたくなる地獄と無力なじぶんを見た。でも、同時にだからこそ「出口」もみえた。

■理論篇■
花金の終電の満員電車内はポーランドでみたビルケナウ強制収容所と変わらない。アガンベンを待たずとも、他ならぬ「Lager」だ。ただでさえ車内では、人格、人権をもった「人間」として扱われていない感覚がずっと続いているにも関わらず、あの決定打、ガタっ!と揺れたときの、『宇宙戦争』のトライポッド出現時のような、すべての「個人」が一瞬にしてただの肉塊となるあの感覚。そこでは、どんなに人道主義的で美しい「他者性」の理論も、ドゥルーズの意味論的革命の理論も、機能しない。問題は、記号や理論ではなく、確実に身体を中心にまわっている。どう解釈しようとも、ただただ不快なのだ、満員電車は!
この不快を避ける方法は3つ。(1)他者性を捨てる=自己中になる。(2)目的地の側に住む。ないし、タクシーで帰る、つまり、電車で帰らない=金持ちになる。(3)地方に住む=貧乏になる。だが、現状からみれば、(1)を選択すれば、「モラル」が欠ける。(2)を選択すれば、「夢」が欠ける。(3)を選択すれば、「存在」が欠ける。
この閉鎖的な現状を打破するためにはおそらく革命を起こすしかない。だが、この国にヨーロッパのようなゼネスト的革命は起きないし、起きなくていい。革命を起こして、「外の人」に、日本もなかなかやるようになったじゃないか=やっとわたしたちに追いついてきたね、と思われるのも悔しい。
だから、「出口」はないのか?
ものごとを、いつも自己保存の理論で考える、アドルノのような人には無理だろう。ものごとを、いつも大きなシステムの理論で考える、マルクス主義者には無理だろう、出口を見つけるのは。だから、カントだ、とはいわない。サルトルのことはよくわからない。ポストモダン、テロの時代、スーパーフラット、現代的状況の描写はなんでもいい。とにかく、多くのことが「例外状態」化しているtopologischな現在では、上からでも、下からでも、左からでも、右からでも、革命のないこの国ではとくに(!)、「大衆」によるシステムの変換はありえない。敵は外在しているのではなく、内在しているから。だから、出口は「個人」による変換にしかない。この変換に目的語はない。なぜなら、いまこの国で必要なのは、一人称の、「わたし」の政治性だからだ。
いったい誰がこんなものを読んでるいるのかは知らないが、このことについてはこれ以上記さないし、また記せない。ニーチェの思想の変遷のように、理論は多くの場合、つきつめると最終的にかなり平凡で身体的な結論に至る。だから「哲学者」は、きっと気づいているのだろうが、「それ」を言わないのだろう。「それ」を言ってしまえば、自分の理論から神秘がなくなり、「アウラ」が消えてしまうから。それに、理論好きが集まるのであろう学問の世界でさえ、理論の細部は追わず、目次と序論と結論だけ読んですますような正解主義のはびこるこの国では、むしろ「それ」は言わないほうがクリティカルなのかもしれない。きっとシラケてしまうから。だから、「それ」はおまえが「やる」ことだ。
■実践篇■
きっと「それ」については、日本の出口を考える多くの理論家がすでに気づいている。だからこそ、問題はいかに「やる」か。「それ」はつねに身体的だ。
一人称の政治は、一人称、つまり「わたし」の政治なだけに「わたし」だけだと効力をもたない、という自己矛盾した構造をもつ。だから「和」に頼るしかない。ドミノ倒しのように浸透する「わたし」の政治を起こすしかない。そのために必要なことは3つ。(1)とにかく、やり続けること。(2)そのために、他者を信じること。(3)そのために、タフであること。
そして、一人称の政治が実行でき、効力をもつのは、少なからずしつこいが、一人称の政治なのだから、公的であることを約束されたいわゆる「政治欄」の領域ではない。一人称の政治は、おそろしく私的な領域と、非政治的な領域で起こさなければならない。

やっつけでは書きたくないので、起床後につづく。

予告というかメモ:

私的な領域とはなにか?非政治的な領域とはなにか?政治家はみな理論?

1、アーティストはいいご身分だこと。
2、渡辺ペコはすばらしい。
3、逆ベクトルのセカイ系を。
4、それはおまえがやるんだよ!